第2話 台風に備えよう

 朝目覚めた時、ベッドから見える窓の外が暗い雲で、雨音が遠くで聞こえていたとする。

 もしこれが平日だったなら、私のやる気は台風の気圧のようにだだ下がり。これからこの雨の中を歩いて仕事に行かなければならないという現実にげんなりしてしまう。

 だが、何の予定もない日曜日だったらどうだろう。

 窓ガラスを叩く雨粒は、どこか遠い世界の出来事のようで、現実感のない景色だけが私の心に忍び込む。照明も付けず、テレビも付けず、毛布にくるまりまどろみに身を委ね、窓の外で繰り広げられる人の営みに、一歩引いた視点から思いを馳せることができる時間。


 お前は何もしなくていい。


 雨なのだから仕方がない。


 重力が倍になったような倦怠感と、神様に赦されているような解放感が身体を包む。

 なんにもしなくていいという贅沢。

 これほどの贅沢を独り占めできる私は何て幸せ者なのだろう。

 私は、雨降る日曜日の朝の、アンニュイな空気が、存外好きなのである。


「ぎゃあああああ!!」


 そんな退廃的で優雅な朝を汚い悲鳴が邪魔をする。


「とばされるーっ! え、いや。ちょっ! 冗談じゃないんだけど! まじ、風、やば。とば、さば、かばぁ!」


インターフォンの向こうから聞こえた声は、ご存じ怠惰先生だった。


「アホかお前は! 何やってんだよ!」


 私は慌てて扉を開けた。


 103号室のドアノブに、哀れな濡れネズミがコアラのようにしがみついている。


「あわあわあわ……」

「早く入れっ」


 風で扉が持ってかれそうになる。私は寒さで震える手を引いて、哀れなネズミを救出してやった。

 扉が閉まると、形だけは平穏が戻って来た。


「ったく。外は台風だぞ?」

「ふへへ。中はあったかーい。でも、せっかくシャワー浴びて来たのに台無しだよー」

「家出る前にそうなることに気付け」

「水も滴る?」

「馬鹿丸出し」

「えい!」


 肘で小突かれた。


「シャワー貸してね」

「勝手に使え。風邪ひかれちゃたまらんしな。私も入るから早く出ろよ?」

「なになに? 一緒に入りたいの?」

「馬鹿言ってんな」


 にやにやするつむぎの背中を押して、脱衣所に放り込む。廊下に小さな足跡が付いていた。

 雑巾は……、あぁ、脱衣所の洗濯機の横か。


「適当に着替え持ってきてやるからちょっと待ってろ」

「だいじょーび。着替えは持って来た!」


 確信犯か……。




 シャワーを浴びて戻るとつむぎはソファーの上でだらしなく溶けていた。

 窓の外の雨風は、まだまだこれからだと言わんばかりの勢いだ。


「お前、びしょ濡れのままバスマットの上乗っただろ。湯上りの清々しさが半減だぞ」

「ふっふっふ。世の中弱肉強食。あたしよりも遅かった玲くんの作戦ミスだね」

「んなもん予知できるか!」

「玲くん家もケーソードにするといいよ。あれは吸うよ! あたしの足は毎日あいつに吸い尽くされる!」

「珪藻土か」


 なんだか表現がエロいが、わざとやっているようなのでスルーすることにした。

 そう言えば、お盆に帰省した時、実家のバスマットが珪藻土に変わっていた。つるつるの土の素材なのに水を吸うという効果が信用できなくて、足裏をバスタオルでしっかり拭いてからその上に乗ったな。


「で、こんな台風の日にうちに来て、何をしようって言うんだ?」

「そりゃもちろん。なんにもしないよ」


 つむぎの口元がにやりと上がる。

 私のアンニュイな日曜日は、計画的に訪れた台風に吹き飛ばされてしまう。




 つむぎは、先週の続きのドラマを再生しようとテレビをつけた。


「うんうん。続きは見てはいないようだね。関心関心」

「ん? 確かにお前に言われた通り我慢したが、どうしてわかったんだ?」

「名探偵つむぎにかかればこれくらいお見通しよ」

「まさか、盗聴器!?」

「し、してないって! 視聴履歴に残っていなかったってだけだよ!」

「それでも怖いわっ!」


 見るだろうか普通。人の家のテレビの視聴履歴なんて。

 エロいやつとか見てなくてよかったぁ。


「こっからが反撃編なんだよね。楽しみー」


 まぁ、アンニュイな日曜日もいいけれど、非現実性というのは、得てして時間が経つと特別感がなくなってしまうものだ。朝の十分間を味わえただけで満足しておこう。

 私はいつものようにコーヒーを淹れるためキッチンに立った。


 豆をミルにセットし、ケトルの電源を入れた時である。


「――あ」

「お」


 テレビの画面が突然消えた。


 主人公の住むマンションに新しい住人が引っ越してきたところだった。糸を引くように消えた画面はうんともすんとも言わない。ケトルの電源も、ミルの電源も落ちていた。


「停電!?」

「うわ、マジか……」


 リモコンをポチポチしても、ドラマは再開されない。照明も落ち、ケトルにもミルにも電源が入らない。


「ど、ど、ど、どうしよう、玲くんっ!」

「まずは懐中電灯。それから、非常用具を持ち出して来て。水は……、出るな。ガスも、使える。落ちたのはとりあえず電気だけか」


 私は頭の中に描いたリストを一つずつチェックしていく。


「さっき風呂場に水は貯めておいたし。飲み水用のペットボトルも確保してある。冷蔵庫の中身は今のうちに使っちまうか。豆が引けないからコーヒーは飲めないが、湯は沸かせるし紅茶なら何とか」

「れ、冷静だね……、玲くん」

「あれだけテレビで騒がれてれば用意ぐらいしておくだろ」

「……」

「つむぎ?」

「この無言は戒めでございます。存分に憐れんでくださいまし」


 目をつぶって頭を差し出してくるから、一発チョップを放ってやった。嬉しそうに叩かれた頭を押さえる。マゾかもしれない。


 いつでも逃げ出せるように防災用のリュックサックを手元に置き、私はリビングのソファーに帰って来た。スマホで情報を集めていたつむぎが、画面を突き出して来る。文明の利器が全く使えなくなった部屋ではその光はとても眩しい。


「今真上だね。これはしばらく復活しないかなー」

「日曜日でよかったな。これが平日だったらたまったもんじゃない」

「えー。それ、社会人臭いよ、玲くん。あたしは月曜の方がよかった! お休み万歳。NNDの活動がもう一日出来たかもしれないよ!」

「日曜日じゃないのに?」

「そこはほら、雰囲気で!」


 社会人臭いと言われて、少しだけ傷つく。

 子供の頃は台風が来るのが楽しみだったな。

 堂々と学校を休んでもよい口実。いつも賑やかな大通りに人っ子一人いない現実。普段味わえない特別感が、私を興奮させたものだ。

 この日本のどこかでは、屋根を吹き飛ばされ、電柱が突き刺さり、日々の生活すら困難になってしまう人がいるというのに、子供は勝手だ。そして、大人は不自由だ。

 窓の外に目を向けると、向かいの家の生垣が、時折吹き付ける強い風から必死に身を守っていた。

 薄暗い部屋。いつもはつけっぱなしの風呂場の換気扇の音も、ジーと唸る冷蔵庫の音も聞こえない。明かりがなく視界はモノクロだった。


「静かだな」

「静かだね」

「さて、本格的に何もできなくなってしまった」

「本当だ。なんにもすることがないよ」

「今こそ日曜日なんにもしない同盟の本領発揮じゃないのか?」

「そうだね……」


 つむぎの返事は歯切れが悪かった。振り向くと、心ここにあらずといった表情で、窓の向こうの揺れる庭木を見つめていた。


「心配事か?」

「え?」

「似合わない顔、してたからさ」

「もー。それ、どういう意味!」


 言葉通りの意味だ。それ以上の意味はない。


「仕事の方でちょっとね。台風来るとはしゃいじゃう子ばっかりだからさ」


 まるでお母さんみたいなことを言う。子ども扱いされた同僚たちはたまったものではないだろうが。

 思いを馳せるつむぎの横顔は、普段とは違う魅力にあふれていた。

 なんにもしないとは言いつつも、こいつはどうしたって何かをしてしまうんだ。

 この同盟を立ち上げたのは、そういう心配性な自分から自立したいと思ったからなのかもしれない。


「静かだな」

「静かだね」


 同盟関係になってしばらく経つが、今日が一番、何にもしない一日だったかもしれない。




 いつの間にか眠っていた。辺りはもう暗い。台風が上空にあったときのような薄暗さではなく、夜空に星が瞬く感じの暗さだ。

 どうやら長いこと眠っていたらしい。変に曲がっていた首が痛い。ストレッチがてらに首の運動をすると、左肩のところでつむぎの頭とぶつかった。


「いて」

「あ、すまん」


 肩に乗っていた重さと温かさがスーッと消えていく。失われる温もりに、名残惜しさを感じてしまった。

 風も雨も既に止んでいた。


「なんにもせずに、一日が終わっちゃったよ……」

「ああ。同盟の名に恥じない一日だった」


 それが彼女の望んだ一日だったかは別にして……。


「とっても無意義だったね!」


 満足そうに頬を緩めているから、きっとこれでよかったのだろう。

 照明のスイッチを押すと電気がついた。数時間ぶりの明るさに、目が痛くなる。


「さて、そろそろ時間だし帰らなくちゃ」

「また一週間始まるな」

「その一週間を乗り越えたら、またNNDの活動の日がやってくるよ!」

「ポジティブだな」

「あたりまえじゃん!」


 玄関までついて行って、ドアのところでつむぎを見送る。

 扉が閉まるその瞬間まで、つむぎはずっと手を振り続けていた。


 つむぎがいなくなった後のリビングは、台風が過ぎ去った後のように静かだった。それを寂しいと感じてしまうのは、やっぱりあいつのことが好きだからだろうか?

 雨の音の代わりに聞こえて来た秋の虫の鳴き声が、生意気にも私の心を揺さぶっていった。

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