第八話 ゲンと呼ばれた、かつての少年
酒が入っていたから、なんて言い訳はできなかった。
あんなにわかりやすく、手を伸ばせるところにいたのに。
朝の快晴が嘘であったかのように、夕方には雨粒が窓ガラスを叩いていた。
夕飯は、鮭がメインの寄鍋。鍋に塗られた味噌を少しずつ溶かしながら食べる。
飯も酒も進み、雨風の音が気にならないほど話が盛り上がる。普段は疲れに任せて黙々と箸を動かす玄武も、このときばかりは話の輪に入り、元々仲が良かったかのように男達と喋り倒した。
久々に喋り過ぎたせいか、一気に疲れが出て眠くなる。
「後は俺が片づけるから、にいちゃんは寝てなよ」
阿栗に背中を押され、玄武は廊下に出た。
薄暗い廊下で、女人を見かけた。
「おお、あんた」
果乃という名だと、酒屋の若者から聞いた。
女人は黙って頭を下げる。
「飴ちゃん、あげますわ。後で来てや」
女人の頭をぽんぽん叩き、玄武は自分の部屋へ向かう。
文机のランプをつけたまま、雑に布団を敷いて眠ってしまった。
雨風の音が子守歌のようだ。
うつらうつらする脳裏に浮かんだのは、愛したくてやまない女人の姿。その隣にいた、小柄な老人。
酒が入っていたから、なんて言い訳はできなかった。
あんなにわかりやすく、手を伸ばせるところに彼女がいたのに。
雨風が強くなり、玄武は目を覚ました。
ランプの頼りない灯りが、人の影を映し出す。
眼鏡をかけた玄武は、影の主を注視する。
見ないで、とばかりに、影の主は身を固くして部屋の隅に下がってしまう。
酒が入っていたから、なんて言い訳はできなかった。
少し考えれば、わかったことなのに。
ひとまとめに結っていた髪は解かれ、乱れていた。一度大きく割れてしまったであろう着物の裾からは、息を呑むほどしなやかな脚がのぞく。衿は肩が見えるほど
なぜ未然に助けられなかったのだろう。
あんなにわかりやすく、手を伸ばせるところに彼女がいたのに。
「なんや、飴ちゃんもらいに来たんか」
玄武の軽口に、女人は頷いた。
「律儀な子やな」
女人は部屋の隅から動かず、手を伸ばす。
玄武は女人ににじり寄り、頬に触れて顔を上げさせた。女人は、泣きはらした目を逸らそうとする。わななく唇に、玄武は自分の唇を重ねた。紅をささない女人の唇に、酒と煙草と男の臭いが残っていた。
手を伸ばして居れば良かった。そうしていれば、彼女がこんなにぼろぼろになることはなかったのに。
玄武は、女人の口に飴玉をもっていく。口の中に放り込まない。口を開け、舌でねだるのを待ち、舌に乗せた。
飴玉が溶けるように、愛したい女の名が男の口からこぼれた。
「果乃」
口の中で飴玉を転がす女人を、玄武は抱きしめる。
「おいで」
もう“女人”ではない。“夜の女”でもない。名も姿も明らかになった彼女は、“果乃”というひとりの存在なのだ。
果乃を抱きしめたまま布団に転がり、小さな飴玉を舐め終わる時機を見計らって、口を吸う。乱れた着物を丁寧に脱がせると、
彼女は夜毎に涙で頬を濡らしていた。本当は、夜這いなどしたくなかったのかもしれない。それでも、玄武を逃げ場だと思ってくれた。
濡れた声と吐息が絡み合う。いつもより熱を帯びる声は、雨風の音に掻き消され、さらに熱を増す。
助けられなかった後悔と相反する快感に身を委ねる男を、女は愛おしむように受け入れた。
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