第七話 愁いを知らぬ鳥のうた
何度眼鏡の位置を直しても、定位置に戻った気がしない。
玄武は自室に引きこもり、書き物の続きを再開する。
フィールドワークを甘く見ていた。地層を間近で見られたこと、研磨前の琥珀を見られたことは良い経験だったが、報告書に書けるほどの収穫がない。
採掘場は月末で閉鎖されるという噂だ。良い時機だ。阿栗のように立ち去ってしまおう。そう思っても、心のどこかで引っかかる。
――
酒屋の若者が語ることには。
下宿屋の女人、果乃は、齢二十三。十四のときに、一回り年上の大地主の一人息子に嫁いだ。
しかし、なかなか子に恵まれず、果乃は二十歳のときに離縁された。その頃には果乃の両親は他界しており、行き場のなかった果乃は、今の下宿屋を管理している。下宿屋はもともと、元夫の父親、果乃からみれば義父が持っていた土地と建物だ。しかも、義父はたびたびここに足を運んで一夜を明かしている。果乃の元夫は後妻を迎えたが、未だに子は授からないらしい。
以前、酒屋の若者は、義父が果乃に話している様子を見てしまった。
――俺に固執することは、ねえ。誰からでも良いから子種をもらえ。うちの養子に迎えてやる。
義父は昼間から果乃に迫り、乱した衿に手を入れて乳房を揉んでいたという。果乃は泣きながら、義父の行いを受け入れていた。
酒屋の若者は、気づかれないうちにその場を立ち去った。本当は、すぐにでも果乃を助け出したかった。しかし、隠居したとはいえ大地主に楯突いたら、何をされるかわからない。代々受け継いだ店を潰される恐れは充分にあった。家族を人質にとられる可能性だって少なくない。
ぽき、と鉛筆が折れた。酒屋の若者の話を思い出すうちに、玄武は歯を食いしばっていた。
鉛筆を文机に置き、眼鏡を外す。鼻当ては歪んでいなかった。
疲れた気がして、畳に横になる。裸眼では、天井の木目が見えない。
ここに来てから、初めてだった。眼鏡をつけたまま口づけをしたのは。明るいうちに女人と口づけを交わしたのは。
「失礼しますね」
歌うような声で目が覚め、玄武は寝転がったまま眼鏡をかける。いつ眠ってしまったのかもわからなかった。
「
玄武は慌てて起き上がる。
「はい。秋心です」
音もなくやってきた秋心粧太郎は、畳に腰を下ろした。
「挨拶に伺いました。今日のうちに、帝都に帰ろうと思いまして」
「それは……急ですね」
今、村を出て列車に乗っても、帝都に着くのは夜だ。
「その前に、きみに聴いて頂きたいのです。歌が完成しましたので」
子どもに聴かせられない歌になってしまいましたが。
粧太郎は、少々困ったように笑った。
畳に座ったままでは歌いづらいというので、縁側に移動する。
粧太郎は縁側に腰かけ、ギターを構える。
伸びやかな歌声と哀愁感のある音色で紡がれるのは、もの悲しくも愛を乞う物語だった。
「曲名はあるのですか?」
「候補は考えています。『名前のない鳥』もしくは、『愁いを知らぬ鳥のうた』」
昼前は晴れ渡っていた空に、いつのまにか雲が垂れ込めていた。山にうっすら下りた雪も見えなくなり、澱んだ空に向かって鳥が羽ばたいてゆく。
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