第六話 酒屋の若者

 懐かしい夢を見た。

 帝都ではなく西の港町で、ゲンと呼ばれていた頃。齢十のときの記憶だ。

 物心つく頃には親はおらず、血のつながりのない大人の間を転々としていた。

 近視のせいで人並みの仕事もできず、眼鏡を買う金もなかった。

 金を稼ぐ方法は、ふたつ。色を売るか、盗品を質に入れるか。

 男にも女にも抱かれた。悪趣味な輩は少なからずいたから、客を欠くことはなかった。ただ、幼い体は体力も少なく、腹も減る。食いつなぐ金を手に入れることで精一杯だった。

 盗みは簡単ではなかったが、気分転換のようなものでもあった。

 ある日、外国とつくにの大きな書物を手に取ろうと店の棚に手を伸ばしたところ、壮年の男に捕まった。

 少年、勉学が好きなのか。

 壮年の男はそう勘違いし、ゲン少年が否定しないうちに眼鏡を買ってやり、親がいないとわかると帝都に連れて帰って養子縁組をしてしまった。戸籍があるのかないのかも不明だった少年に明確な戸籍が与えられ、“石嵜玄武”という名も与えられた。

 その日から、ゲン少年は玄武になった。



 鼻先が冷たくて目が覚める。

 今日は採掘場が休みだ。どうりで阿栗が布団を剥がしに来ない。枕元に置いたはずの懐中時計と眼鏡を取るべく手を広げると、指の歯形が目に入った。

 夜の女に指を噛ませて声を封じ、愛したい一心で女を抱いた。

 男とも女とも関係を持ったことがあるが、可愛いと思ったことも愛したいと思ったこともなかった。

 顔も名も素性も知らぬ女。幻だと言われてしまえば否定できない存在だった。しかし、今は違う。女と接した証拠は、玄武の手に残っている。

 玄武は眼鏡をかけ、懐中時計で時間を確認した。そろそろ11時。帝都にいた頃、休日はいつもこのくらいに起床していた。

 障子を開けると、いつも見える名も知らぬ山が、うっすら雪化粧していた。昨日はなかったのに。

 玄武は手早く着替え、外に出た。

 冷たい空気が薄着の中に染み込んでくる。帝都よりも寒い。

 初冠雪。なかなかに儚げで、美しい。冷たく澄んだ空に向かい、鳥が羽ばたく。

 帝都からは山が見えない。ここに来るまで、長らく山を見ていなかった。

 目を細めて山を眺めているうちに、腹が鳴った。もう昼近くなのだ。昼食みたいな時間だ。

 ぱたぱたと足音が遠ざかる。そちらを見やれば、女人の背中が家の中に入っていった。

 玄武は寒さに耐えられず、自分の部屋に戻った。



 書き物をしていると、部屋の外で物音がした。

 戸を開けると、廊下にお盆が置かれている。

 蓋付きの碗と茶碗。小鉢には、卯の花と、何かの野菜の佃煮。茶碗に手をやれば、まだ温かい。というか、熱い。

 廊下を見渡したが、膳が置かれているのは玄武の前だけだ。そもそも、他の男達の姿はない。まだ寝ているか、出かけたか。この瞬間にこの下宿屋で活動している男は、玄武だけのようだ。そうすると、膳を用意してくれたのは、必然的にあの女人ということになる。

 昨日の朝食は、ごろっと具材が入った“まめぶ”だった。昼の弁当は、玄武のみ肉味噌の握り飯が追加されていた。夕飯は、猪鍋。

 もともと美味い食事だったが、昨日から急に豪華になった。

 考えている間に飯が冷めてしまう。玄武は、ありがたく頂くことにした。

 主食は、栗おこわ。汁物は、蕪と厚揚げの味噌汁。佃煮の野菜は、苦瓜だった。気のせいか、玄武好みの薄味になっている。

 眼鏡を曇らせながら、玄武は夢中で飯をかき込んだ。

 器がからになると、次なる行動を思いついた。

 からになった膳を返却しに行く。



 玄武が想像した通り。女人は台所にいた。

 適当な椅子に腰かけ、握り飯にした栗おこわに、今まさにかじりつくところだった。

 そんな女人が可愛らしく、つい頬が緩んでしまう。

「ごちそうさん」

 玄武は台所に立ち入り、流しに膳を置いた。

「美味かったです」

 女人は椅子から立ち上がり、丁寧にお辞儀する。相変わらず、黙したままだ。

「なあ、あんた」

 女人の名は、未だに知らない。素性も知らない。

 知りたい。せめて、心だけでも。

「あんたには、愛しい人がおるんか?」

 玄武が訊ねた刹那、女人は沸騰したように急に顔を赤らめた。頬に手を当て、目が泳ぐ。

 なんや、その、かわゆい反応は。

 玄武は女人に歩み寄り、もっと表情を見たくて顔を近づける。

 無防備な唇を、指先でわずかに撫でる。すると、にわかに手を掴まれた。

 女人は品定めでもするように、まじまじと玄武の指を見つめる。歯形を見つけると、そこに口づけした。

 玄武は、息を呑んだ。その時機を狙ったように、唇を重ねられる。唇の隙間から、昼間に不似合いな艶っぽい声が漏れた。

 夜闇で肌を重ねる、あの女の声だった。

 玄武が呆気にとられる間に、女人は玄武から離れる。悪戯っ子のように微笑み、びしっと玄武を指差した。逃げるように、勝手口から外に出て行く。

「……てか、人を指差すんやない!」

 玄武が吠えると、勝手口から人が入ってきた。驚いたように固まってしまう。

「いつもの酒を持ってきたんだが」

 見知らぬ顔の若者だが、羽織の意匠から、村の酒屋の者だと玄武でもわかった。中心地のうどん屋の近くに、酒屋があったのをよく覚えている。

「あんた、見ねえ顔だな。採掘場のもんだな」

 ほお、と若者は悟ったように独りで頷く。

果乃かのの新しい男か」

「かの?」

 玄武は繰り返してしまった。

 果乃というのは、あの女人の名らしい。

「あんた、知らねえのか。果乃は昔、大地主の一人息子に嫁いだんだけど、離縁しちまった。今は、隠居した父親の方の、情婦らしいぜ」

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