第23話 巫の血筋
神さまと話をしている間に随分と時間がたっていたようで、開け放たれた扉の外は空がうっすらと白み始めている。
街の中にはまだ燃えている場所もあるが、神社の周りの火はすっかりおさまり、
「――なかなか出てこないはずだ……こりゃ逆子だよ」
産婆の寅さん改め熊さんが、妊婦のお腹を撫でさすりながら呟いた。
眉間に皺を寄せて、今にも何かに噛みつきそうな、泣き出しそうな表情を見せる。
しかし、それは一瞬のことで、彼女は素早く表情を元に戻すと、苦し気に歯を食いしばる妊婦の目を覗き込んだ。
「いいかい、お梅ちゃん。この子は逆子だ。ちょいと手間はかかるが心配しなくていいからね。この子も頑張っている、あんたも頑張るんだよ」
逆子!? これはまずいのではないだろうか。
私の妹も逆子で、通常の出産を諦めて帝王切開で産んだと母から聞かされたことがある。
熊さんは、妊婦の梅さんを安心させるように微笑みかけるが、目が笑ってない……無理をしているのは明らかだ。かなり危険な状態なのだろう。
「ゔゔっ!」
妊婦が唸る。
「いきんで! そうそう、足が見えて来たよ。ゆっくり息を吐いて~力を抜いて~そう、上手だよ、あぁ、よかった! 足をちゃんと揃えてお出ましだ、お行儀のいい女の子だよ」
しかし、ようやく生まれるかと思ったら、そこからまた
母親が
「梅ちゃん、もう少しだよ、ほら、もうちょっとで生まれるから! こらえて!」
熊さんが梅さんの手を擦る。
ここで母体が気を失えば万事休すだ、私にだってわかる、これはマズイ……
「梅ちゃん!? お梅ちゃん!!」
母親がとうとう気を失ってしまった、ぐったりとした肩を熊さんが必死の形相でゆする。このままでは赤子が危ない。
その時、妊婦の枕元でじっと様子を見守っていたククリさまがスッと立ち上がり、両手を前に差し出した。
すると、使徒のクルミノトとツツミノトが妊婦の両側に現れる。
しかし、その姿は、本来の凛々しい容姿からは想像できない程小さく、弱々しいものだった。
あぁ、そういうことだったのか……この姿、ママミが連れて帰った仔犬と、お使いさまの姿が今つながった。
人を火から守るのに力を使い果たしてしまったのだろう、犬は飼い主に似ると言うが、このお使いさまは神さまそっくりのお人好しだ。ボロボロのチンチクリンじゃないか……
そんな姿になりながらも、この使徒達は妊婦に寄り添い、残った力を分け与える。
妊婦の梅さんは、淡い光に包まれたかと思うとパッと目を覚まし、すぐにしっかりとした呼吸をし始めた。顔色が少し戻っている。
その一方でクルミノトとツツミノトは力を失い、さらに小さくなり、最後には梅さんの身体に吸い込まれるように消えてしまった。
その様子を目の当たりにした熊さんは、涙で顔をくしゃくしゃにし、ククリさまに手を合わせて何度も頭を下げている。
お礼を言おうとしているのだろうが、嗚咽で言葉にならない。
「クマや、安心しておる場合ではないぞ」
神さまは、頭を下げて肩を震わせる熊さんに優しく話しかける。
「赤子の首にへその緒が掛かっておる、このままでは助からん」
ハッと顔を上げた熊さんは慌てて赤子の様子を探り、顔を真っ青にした。
「よいか、赤子の足を持って左に回しながらゆっくりと引き抜け、そうすればへその緒が首から外れる」
「は、はい!」
熊さんは、お梅さんに力を抜くように言うと、神さまの言った通りに赤子を回しながら引っ張る。脆い赤子の身体を気遣いながら、ゆっくりと、ゆっくりと……
フッ、フッ、フーッ……フッ、フッ、フーッ。
梅さんが言われたとおりに息を吐き、身体の力を緩める。
「ゆっくりと、ゆっくりと……」
熊さんは自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、赤子を引っ張る。
あともう少しだ。
衝立の外では、皆が固唾を呑んで赤ん坊の誕生を待ち受けている。
「う、産まれた!!!」
熊さんが思わず叫ぶ!
その声にオォッと歓声が湧き起こるが……
それはすぐに小さなどよめきに変わってしまった。
赤ん坊の泣き声がしない……
この世に生まれ出た途端に、自分の存在を知らしめんとするような、高らかな宣言にも似たあの泣き声が……
再び熊さんの表情が曇る。
手の上の赤ん坊はぐったりとして動かない。
「息を、息を吸って、ほら、息を……」
熊さんは、震える手で赤ん坊の背中をさすり、足の裏を手の平で優しく叩く。
「ほら、せっかく生まれて来たんだし、ね、ね」
熊さんは祈るように赤子を擦り続ける。
しかし、赤子は動かない……
私は、その熊さんの姿がいたたまれなくて、胸が締め付けられるようだったが、なぜかそれから目を逸らすことができなかった。
その様子をじっと見つめていた神さまが、静かに声をかける。
「クマや、よく頑張ってくれた」
熊さんの肩がピクリとふるえた。
あれだけ大きく見えた彼女の身体が、すっかり縮んでしまったようだ。
「ウメも精いっぱい母としての役目を果たした、立派であった」
梅さんは、動かぬ我が子に震える手を伸ばそうとしていたが、その声を聴いたとたんに泣き崩れてしまった。
そのやり取りに耳をそばだてていた衝立の外からも、すすり泣く声が漏れる。
「皆の者、よく聞け、我は暫くこの
神さまは言葉を続ける。
「今朝ここに産まれた娘に、我が名より一文字を与える。菊と名乗るがよい、皆で大切に育てよ!」
そう言い残すと、神さまは一筋の眩い光となって、赤ん坊の中に吸い込まれるように消えてしまった……
ホッ、ホギャー!!! ホギャー!!!! ホギャ~~!!!
突然のけたたましい泣き声に、皆が互いの顔を見合わす。
さっきまでグッタリとしていた赤子が、大きく口を開け、顔を真っ赤にして、小さな小さな両の拳を力強く振りながら泣き叫ぶ。
ホッ、ホギャ~~!!! ホギャ~~!!!! ホギャ~~!!!
驚きと喜びで暫し呆然としていた熊さんは、ハッと我にかえると、手の上で元気に泣く赤ん坊を、梅さんの胸に抱かせた。
「あ、ああっ! ああああああ」
梅さんの目からあふれる涙は、先程の涙とは別物だ。
「お梅ちゃん、本当によく頑張ったね。ほら、お乳を……おぅ、おおぅ、あぁぁっ……」
今まで堪えに堪えていたものが一気に溢れ出したのだろう、熊さんは声を上げて泣きだした。
梅さんは何度も頷き、我が子を胸に抱きしめると、その耳元で優しくささやいた。
「お菊、よく頑張ったねぇ……母さんのお乳だよ、たんとお上がり」
衝立の外では、泣いているのだか笑っているのだか、涙やら鼻水やらで顔をくしゃくしゃにした皆が抱き合う。
「やったー!! 産まれたー」
感極まった鈴木さんが叫ぶ。
ひょっとすると、彼が人生で一番大きな声を出した瞬間だったのかも知れない。
衝立の中から熊さんが現れると、皆が取り囲んで口々に
目の下には濃い隈が現れ、一晩でげっそりとやつれてしまったが、その表情はどこまでも晴れやかだ。
「よくやった! お寅……熊さん?」
鈴木さんが声をかけるが、呼び名に迷う。
「あたしゃ今日から熊だよ。ククリさまに頂いた有難い名前だからね……おとっつぁんもおっかさんも笑って許してくれるさ」
熊さんは拝殿に向かって深く一礼し、輝くような笑顔で答えた。
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