第14話 やましいことはしておりません!
「シンさん? 大丈夫ですか」
モモさんが心配そうに顔を覗き込んでいる。
あぁ、この上目遣いの表情もいいな……
「ちょっと考え事を……」
回想から引き戻されると異音は止んでいた。どうやら音源の笑いの衝動は峠を越えたようだ。
仕切り壁越しに隣を覗く。
案の定と言うか何というか、そこにはすまし顔で着席するお笑い
ピンと背筋を伸ばし前を見つめる姿は、まるで置物のようで、間違いなく美人の範疇に入るであろう整った顔には薄っぺらい微笑みが張り付き、そのガラス玉のような瞳からは一切の感情が見て取れない。
「お知り合いですか」
恐る恐るといった様子で隣の席を覗き込むモモさんが、小声で尋ねてくる。
「うん、会社の後輩……おいっ、ササヤマ、ここで何してる?」
ママミはバッと立ち上がると、見事な気をつけの体勢で言い放つ。
「ぼっちでお茶をしております。やましいことはしておりません!」
なぜか軍隊調だった。
今にも敬礼をしそうな勢いだ。
そして、既に平静を取り戻したママミの表情からは何も読み取ることができなかった。
こいつ、しらばっくれる気だ。
直立不動のママミと、それを見つめるモモさんと私、そしてホールスタッフ。
カフェの一角があきれかえった空気に包まれたその時、モモさんがぽつりと呟いた。
「バカップル……」
途端、ママミはその場でうずくまり、テーブルと机の狭い隙間にはまり込んでしまった。肩が激しく震えている。
器用なものだ、声を出さずに爆笑してやがる。
「聞かれてしまいましたね」
丸まって震える物体を見下ろしながらモモさんが呟く。
「あぁ、聞かれてしまったようだ」
私も呟くように返す。
隣ではトレイを胸に抱えたウェイターがうんうんと頷いている。
ノリがいいな、おい。
ママミの声なき爆笑が収まるまで、有に五分はかかったであろうか、いま私とモモさんの目の前には笑い疲れて、それでもどこかスッキリとした様子のママミが静かに座っている。
「で、話して貰おうか、何をしていたかを」
私はテーブルに両肘をつき、両手の指を顎の辺りで組んで尋ねた。
一度はやってみたかったポーズだ。
眼鏡があればさらに良いのだが……
隣を見ると、モモさんも同じ形でママミを見つめている。
すこぶるノリが良い。
「信じて下さい!」
ママミが訴えかけるように身を乗り出す。
「何を信じろと?」
「偶然なんです! 本当に一人でお茶を飲んでいただけで、そこに先輩が入ってきて、でも、彼女さんと待ち合わせだろうから声は掛けない方がいいと思って……そうしたら彼女さんが来て……」
ママミは俯いて肩を落としている。
その肩が小刻みに震えている。
少しは反省したか……
いや違う。思い出し笑いをこらえているのか、この笑い袋め。
これ以上笑いものにされてなるものかと慌てて詰問を続ける。
「この店にはよく来るのか」
「いえ、初めてです!」
「ほおぉ、初めての店に偶然入り、偶然我々の隣の席に座ったと?」
「いやぁ、偶然ってあるんですねぇ」
ママミは他人事のように感心している。
ママミは嘘をつくような奴ではないし、この様子からも嘘をついているようには見えない。ただ、確率的にあり得ない……
いや、待てよ、この感じ、確率を無視した出来事は最近もあったな。
「モモさん、どう思う?」
ママミに聞こえないようにモモさんの耳元で囁く、いい香りがする。
「嘘を仰っているようには思えません……一つ私から訊いてもいいですか? 気になることがあるんです」
モモさんの囁きが耳をくすぐる。
『気になること?』
なんだろう、とにかく私はモモさんに頷いた。もちろんOKです。
「初めまして、わたしはタチバナといいます。一つ伺ってもよろしいですか?」
モモさんがママミに微笑みかける。
「初めまして! ササヤマ・マミです! サカキさんの後輩です! 何でも訊いて下さい!」
ママミは両手をテーブルの上で揃え、心底嬉しそうな笑顔で答えた。
その時、ママミの背中でぶんぶんと振り回されるしっぽが見えたような気がした。
「ササヤマさんは……」
「ママミと呼んで下さい! ササヤマ・マミ、略してママミです!」
「あ、はい、ではママミさん、この店にはどのようにしていらっしゃいましたか? その、なんとなく足がこちらに向いたとか、誰かに導かれたとか……そんな感じはしませんでしたか?」
ママミの眼と口が大きく開かれる。これが世に言う鳩が豆鉄砲を食らった顔というやつだろうか、麩の投入を待ち受ける池の鯉のようにも見える。
「犬! そうです、子犬を追いかけて来たらこのお店の前に来ていました。そこでその子を見失ったので、そのままふらりと入ってしまいました。こんなオフィス街で子犬なんて珍しいなぁ、かわいいなぁって。こんなに小さいんですよ、豆柴かなぁ……」
ママミは両手で子犬の大きさを示しながら口元を弛めて天井の方を見つめている。
ふと我に返ったママミは縋るような眼で訴えかけてくる。
「信じて下さいよぉ、本当なんですよぉ」
信じるも何も、ママミの肩越しに見える桜の木の根元を、子犬がコロコロと駆け回っているのが見えている。
「あの子……もしかして……」
私の耳だけに聞こえる大きさでモモさんが呟く。
「えぇ、もちろん信じていますよ。ところでママミさん、犬はお好き……」
「好きだす!」
モモさんの言葉が終わるのを待たずに断言するママミ、よほど好きなんだろう。興奮のあまり語尾も乱れているし。
ここ数ヶ月で磨き抜かれた私の観察眼は、このときモモさんの大きな目が少し、ほんの僅かに細められたのを見逃さなかった。
「犬を飼っていらっしゃるのですか?」
「いえ、今はいないんですよぉ、三年前にいなくなってしまってからは……うちの両親も寂しいから飼いたがってて、でもなかなか縁がなくって」
「ママミさん、その縁はすぐ傍にあるかもしれませんよ」
モモさんはそう言うと白い歯を覗かせた。
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