第13話 お笑い増幅器《アンプ》
去年の夏は暑かった。
いろんな意味で。
十年に一度の猛暑と言われたその夏に、社内でちょっとした事件が起こった。
クライアントに提案していたWEB広告の掲出枠が確保できなくなった……それが事件の発端だった。
いったい何が気に入ったのやら、弱小広告代理店の我が社を長年贔屓にしてくれている、そこそこ名の知れた食品関係の顧客がいるのだが、事件はその上得意からの依頼案件で発生した。
期待の新商品を大々的に告知するキャンペーンということでクライアントは意気揚々、当社も気合い満々でプロジェクトチームを組んだりと、ここ最近にない力の入れようであったのだが、少しばかり油断と誤算があった。
通常であれば十分に掲載できる広告量とたかをくくっていたのだが、猛暑に商機を見出した大手企業が、唐突に季節商品の大規模キャンペーンをねじ込んで来た。
その予想外の広告出稿のため、企画通りの露出量を稼ぐことができなくなってしまったのだ。
八月の媒体は空いている?
そんなことはなかった……まったく。
「まーこーとーにー申し訳ございません! 広告出稿枠が売り切れておりました!!」
その衝撃の報告を受けた時のことは、決して忘れることはないだろう。
いったいどれほどの回数を
まさに平身低頭、地面に額をこすりつけて微動だにしないその姿と、それを目の前にして呆然とするプロジェクトチームメンバーの表情が、今でも一枚の絵画のように目に焼き付いている。
結果的には、苦し紛れでひり出した新しい広告策が、なんの冗談であろうか奇跡的に効果を発揮して、一応は成功という形で終わったのだが、そのすったもんだで、社員全員が冷汗や脂汗まみれになりながら駆けずり回ったという、これまで経験したことがないようなホットな夏を過ごした。
そして、そのキャンペーンがなんとかかんとか終了した後に、珍しく、と言うか、自分にとっては初めての経験だったのだが、『社長反省会』の開催通知が発信された。
入社したときから噂に聞いていた社長反省会。
社長反省会とは言うが、決して社長が反省するわけではない、社長が社員の反省を促すのだ。平たく言えばお説教だ。
うちの課からはプロジェクトチームのメンバーであった自分とママミが出席することになった。
そのことを伝えに来た課長は、なぜか少し悲しそうな顔で「笑わないようにね」とぽつりと呟くように言った。
「まじめ課長どうしたんですかねぇ、なんだかしょんぼりしちゃってますねぇ……で、笑わないようにってなんでしょうか?」
ママミが不思議そうに訊いてくる。
「なんだろうな……」
その時は全く見当もつかなかったが、いま思えばこれが前振りだったのだ。
◇◇◇
「えー、今回のキャンペーンではいろいろありましたけど、まぁ結果としては大成功でした。それと、新しい広告手法の可能性も見えた。まずは皆さんに感謝し、成功を祝おうと思います。おおきに、ありがとう」
反省会は社長の挨拶から始まった。
(これはまずい)
社長が会議室に現れた途端、その場にいた誰もがそう思ったはずだ、少なくとも自分は拳に力を込めて歯を食いしばった。
プロジェクトリーダーの第一局長は社長の横でただ俯いている。
一見殊勝な様子に見えるが、その姿勢は社長を見ずにすむ体勢でもあった。
社長は、まずは暢気な大阪弁で皆にお礼を言ったあと、わざとらしく眉間にしわを寄せて続けた。
「しかしや、この成功はほんまに運が良かっただけで、苦し紛れのリカバリー策が外れとったら、今頃みんなは路頭に迷っとった、その辺のとこ絶対に忘れたらあかんでぇ」
机の上に両手を置き、小柄な身体を乗り出して出席者の顔を一人ずつ確かめるように見回す。
かなり芝居がかった動作だが、まぁそれはいい。問題はその格好だ。
(成金コントか……)
その場にいた局長、部長はそう思った。
(歌舞伎町のホストだな……)
課長たちはそう考えた。
(どこの魔法使いだよ……)
若手のホープは思わず突っ込みそうになった。
まぁ、これはその場の皆の思いを自分なりに推測したまでだが、そう大きくは外れていないであろうことは、皆の表情を見れば察しが付いた。
そして、社長の姿を冷静に観察することが出来るのはそこまでだった。自分も含め、その社長の手よりも上に目をやる勇者はいなかった。
「今日は、なんでこんなことになってしもたのか、皆でよう考えて、二度とこのようなことのないようにしていきましょ」
話している内容はまともだ、それだけに
心の底からこみ上げてくる、ある衝動。それを抑えるために俯いていた皆が、そのまともな語り口に誘われて恐る恐る顔を上げる。
そこには一体の人形が座っていた。
つやつやと撫でつけられたオールバックに丸い黒縁の眼鏡、そして、いったいどう言う了見でこんな物を売りに出したのかを、衣料メーカーに厳しく問い詰めたくなるような派手な縦縞のジャケット。
いや、こんな商品企画が通るとは信じがたい、オーダーメイドであろうか。それはそれで、あれだが。
いずれにせよ、これは明らかに道頓堀の食いだおれ人形インスパイヤだ。
「皆さんの意見を聞かせてほしい。ほな時計回りで順番に話していこか、遠慮したらあかんで、おもろい、いや、ええことゆうた人には岩おこし一箱プレゼントや」
岩おこし……その存在の微妙さにおいて右に出るものはない大阪迷物。
社長の狙いは明らかだ。
(笑わせに来ている……)
皆の表情に緊張が走る。
その時、背筋にいやな汗が流れたのを覚えている。
「コホン、では時計回りと言うことですので私から」
さすがは局長、社長のご乱行にも一切動じていない。
社長の姿を直視しなくてもよい隣席というアドバンテージもあり……
いや、違う? 眼が泳いでいる!
正面を向きつつも横目で社長の様子を確かめたいのであろうか、視線はふらふらと定まらない。
想像は往々にして現物を凌駕する。
局長はいま自分の想像する社長像と対峙しているのだ。自分との戦い……胸が熱くなるフレーズだが、間違ってもこんな場面では使いたくないものだ。とにかくがんばれ、局長。
後でその場にいたメンバーにそれとなく聞いたところ、局長が何を話したのかは誰も覚えていなかった。
しかし、自分との戦いに見事勝利した局長の姿は皆の心に残ったようで、その後、本人の知らないところ、主に若手の間でアイアン・ウィル〈鉄の意志〉という二つ名が広まった。
これも後で聞いた話だが、うちの課長は昔、反省会で盛大にやらかしたらしい。
日頃むっつりとしている課長が、部長にスマイリーと呼ばれている理由が、このときようやく分かった。
局長が、誰一人としてその内容を聞いていなかった意見を述べ終えたところで、その会議は事件へと発展した。
「ぎゅっ、ぎゅぎゅ」
なんだかおかしな音が聞こえる。
発信源は隣に座るママミだ。
俯いたままそちらを伺うと、同じく俯いたまま肩を振るわせるママミの姿があった。
その両手はパイプ椅子の座面の両端を、手から血の気が失せるほど強く掴っており、そこから「ぎゅぎゅ」っと座面のビニールがすれる音がしていた。
ママミは眼をカッと見開き、机の上の資料を凝視している。だが、そんな物を読んでいるわけではないことは明らかだ。
目を瞑ると、せっかく視界から追い出した社長の姿がまぶたの裏に入り込んでくるのだろう。
「ぐっぐっぐっぐぐぐぐ」
歯を食いしばった口元からはくぐもった音が漏れている。
ママミはもう長くは持たない、あの目をつぶったが最後、職場で笑い袋とかなんとか呼ばれることになるのだろう。
大ピンチだ。
だが、ママミの窮地は他のメンバーの救いでもある。ママミの研修担当である自分を除き、この部屋の連中は、もれなく全員ママミの崩壊を待ち望んでいる。
人身御供、スケープゴート、いろいろな言い方があるが、大人の社会では往々にして起こりうることだ。
助けてやりたいが、この状況では如何ともしがたい。
許せ、ママミ。
せめて俺だけは笑い袋ではなくモナリザと呼んでやろう。
「ぎゅっ、ぎゅぎゅ、ぐぐぐぐぐぐぐ」
しかし、ママミはさらに粘った。
ママミの、笑いを
いつしかスケープゴート・ママミは自らの足で生け贄の祭壇から下り立ち、笑いの増幅器として周囲を攻撃し始めた。
『まずい、道連れにされる!』
皆がママミの作戦に気付き、額に玉のような汗を浮かべ肩を振るわせ始めたその時、ママミは突然顔を上げて言い放った。
「社長に注目!」
不意を突かれた皆は、反射的に社長に眼を向けてしまった。
今まで心の中から閉め出していたイメージがリアルな視覚情報として網膜から視神経を通り脳に伝達される。
「せやで、みんな下向いてたらあかんよぉ、こっち見いや」
その視覚情報は満足そうな笑みを浮かべ、両手を胸の前で交互に上下させている。
それは、本家食いだおれ人形が太鼓を叩く仕草そのものだった……
◇◇◇
その後のことは記憶にない。
ただ、社長がママミに向かって「ええ振りやったよ」と満足げに頷いていたのは覚えている。
気が付いたときには、自席に座っていた。なんだか腹筋が重い。
「かりかりかりかり」
隣の席からなにやら音がする。
「先輩も食べます? 堅いけど美味しいです、岩おこし。牛乳と一緒に食べると最高です!」
ママミはその日「お笑い
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