第二章 ククリさま 神さま始動編

第10話 タッチ・タイピングのない世界

 スマホが二度、机の上で震えた。

 モモさんからのメッセージだ。


 ちらりと課長の様子を伺うと、キーボードとモニターを交互に見ながら両手の中指でひたすら文字を打ち込んでいる。


 タッチ・タイピングのない世界からやって来た、どこにでもいる昭和のおじさんである。しかし、そのキーボードを叩く動きは尋常でなく早い。


 部長に提出する週報を編集しているのだろう、とにかく今は作業に没頭中だ。このモードに突入した課長を見ていると、ちょっとした曲芸をタダで見せてもらっているような、少し得した気分になれる。


 本人は事あるごとに「不器用ですから」と眉間にしわを寄せて言うが、不器用も極めればこうなるのかと素直に感心させられる。


 ちなみに、この「不器用ですから」という台詞は誰かの物真似らしいが、課長は課のメンバーとは世代が違うので、オリジナルのイメージは微塵も伝わらない。


 以前、同じ課の後輩、ママミが「それって誰かの物真似ですかぁ? 分からないですぅ、ぜんぜん」と、質問というか包み隠さぬ感想を述べたところ、すかさず「不器用ですから」という返事が課長から返ってきた。


 その時、課長の口の端が少し上がっていたことから、似ている似ていないの評価より、その言葉が言える言えないの方が彼にとっては大事なのであろうことが判明した。


 それからは物真似というより課長の口癖の一つとして課のメンバーは考えている。


 私の右隣の席では、メッセージの着信に気付いた後輩のママミが興味津々の様子で身体ごとこちらを向いている。

 念の為に言っておくが就業中である。


 彼女の名は笹山真美と言うのだが、会社の皆はママミと呼ぶ。

 本人はその呼び名を気に入っているらしく、給湯室に置かれた共用の冷蔵庫を開けると、丸っこい字で大きく『ママミ』と書かれた牛乳の紙パック(一リットル)や中身のよくわからないビニール袋が詰め込まれている。


 揃えた膝の上にちょこんと手を乗せてこちらを伺う様子が、お預けをさせられている犬のようだ。


 ママミの視線に気付かない振りをして素早くメッセージに目を通す。


『お仕事中にごめんなさい。今日、一緒に帰れますか?』


 思わず頬が緩みそうになるのをこらえ、少し硬い表情を作りながら顔を上げると、ママミに自分の机に向かうようアゴで指示をする。


「彼女さんからですかぁ? こないだ二人でいるところ見ちゃいましたよ。美人さんですよねぇ、何処で知り合ったんですかぁ、弟さんとかいらっしゃいますかねぇ、いたら嬉しいなぁ」


 ママミは、私の指示など全く聞く耳を持たず、イスを漕ぐようにコロコロとこちらに前進してスマホを覗き込もうとする。


「美人さん? 分かっているじゃないか……弟さん? いるよ」


 モモさんのことを自慢したい、惚気たいという思いが無いというと嘘になる。モモさんのことを褒められて悪い気はしない。というか、とても気分のよい私は、ママミの誘いに乗ってつい答えてしまった……


 ママミは「弟がいる」と聞いた途端、にへらとした笑顔を浮かべ、天井をぼんやりと見上げて固まってしまった。ママミの頭上にむくむくと膨らむ妄想雲が見える。


 こいつ、ポンコツPCか……リスタートボタンを押そう。


「それより仕事中だぞ、集中、集中。今度のプレゼンの資料はできたのか?」


 ママミは、はっ、と我に返ると、元気な声で答えた。


「あともう少しで完成です!」


 どこからどう見てもおまぬけキャラで、何事にも首を突っ込まないと気が済まない火の玉娘だが、不思議なことにママミは仕事ができる。


「お、おぅ、じゃあ午前中にチェックするから十一時半に見せて」


「ヘイ、ガッテンです」


 時代劇か何かで見たのであろう、ママミは親指で鼻の頭を擦るような仕草を見せる。


 インチキ江戸っ子のママミを机に向かわせるのに成功した私は、昔テレビで見た犬の調教師の姿に自分を重ねて、少し胸を張ってみた。


 いや、そんなことをしている場合ではない。

 素早くモモさんへの返信を打つ。


『もちろん! 六時にいつものカフェでどう?』


『ありがとうございます! では六時にいつものカフェで。お仕事、応援しています!』


 早っ! 送信と同時に返信が来た。

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