第7話 桃の香り
そしていま、一夜明けて神社の前で彼女を待っている。
頭の中で今までの流れをおさらいし、もう一度時間を確認する。
九時半、まだ待ち合わせ時間まで三十分もある。
はやる心を抑えきれずに随分とフライングしてしまった。
そうだ、先にお礼参りを済ませておくか。
五分もあれば戻ってこられるだろう。
軽く一礼をして鳥居をくぐり、手水舎で手と口を清める。
春先の水の冷たさに気が引き締まる。
おろしたてのハンカチで手を拭き拝殿に向かうと、突然胸の高鳴りを覚えた。
原因は明らかだった。
そこには手を合わせて祈るタチバナさんの姿があった。
小柄な身にまとった長丈の白いニットのカーディガンは、拝殿の朱を受けて淡く朱鷺色に染まり、朝日の中で自らが光を放っているかのように輝く姿は、神々しくさえあった。
とても
新たな嗜好の発見に少し動揺しつつも彼女から目が離せない。
しばらくその姿に見惚れていると、参拝を終えた彼女がゆっくりと振り返り、足下に目を落としながら階段を降りてくる。
階段を降り切ったタチバナさんが顔を上げる。
私を惹きつけてやまない可愛いおでこと、その下に完璧なバランスで配置された輝く瞳。ただでさえ大きなその目がさらに大きく見開かれる。
「あっ……おはようございます」
「おはようございます。お参りですか」
彼女の瞳から目が離せないまま、自分が思っているよりもしっかりとした声が出た。
決して余裕があるわけではない、逆だ。常々思うのだが、人間、あがったりまごついたりしているうちはまだ余裕があるのではないだろうか。
今思えば不思議なことだが、その時、彼女の前では堂々と落ち着いた態度でいなさいと誰かに言われた気がして、その声に応えようとする自分がいた。
「はい、約束の時間までにお参りしておこうと思いまして。あの、サカキさんも?」
「ええ、私も早く着いたのでお礼参りを」
「お礼参り?」
「ええ、お礼参りです。少し待ってていていただけませんか、済ませてきますので」
「じゃあ、あのベンチでお待ちしていますね、どうぞごゆっくり」
小さな社務所の横に置かれたベンチを指差す彼女の表情が一際明るくなったような気がした。
もう賽銭箱の後ろに立てられた礼拝の仕方を見る必要はなかった。
目に焼き付いた彼女の所作をなぞりながら、神様にお礼を申し上げた。
この一ヶ月で起こったいいことのいろいろ……
信号待ちで培われた心の余裕と向上した注意力、そのおかげでいままで目に入らなかった周りへの気配りができるようになり、円滑となった人間関係等など。
そして何よりタチバナさんに出会えたこと……思い付く限りのいいことを報告し、そのそれぞれにお礼申し上げた。
報告とお礼を済ませて彼女のもとへ向かおうとしたとき、ふと、桃の香りが顔をかすめた。季節外れではあるが、あの甘い香りは確かに桃だった。
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