第3話 人間とは慣れる動物である
はてさて、誰の言葉なのかは忘れてしまったが「人間とは慣れる動物である」とはよく言ったものだ。
ボンヤリとした微妙なストレスに歯を食いしばる日が暫く続いたが、それでも願掛けを始めて2週間が経つ頃には信号待ちの過ごし方を開発し、急いでいるとき以外は、ほぼストレスを感じなくなっていた。
信号ごとに楽しみを見つけたのだ。
例えば、会社を出て一つ目の信号待ちでは、デパートのショーウィンドウを眺めるようになった。
昨日まで灰色のダウンジャケットで着ぶくれていたマネキンが、翌日には鮮やかな色の薄手のスプリングコートに衣替えしていたり、マフラーを巻いていたものが菜の花色のワンピース姿に変わっていたりする。
残業で帰りが遅くなったある夜、
「女の子のスポットライトはもうちょっと下かなぁ、胸もとの辺り。そうそう、そんな感じで!」
「男の子の方も下げます?」
「そっちは肩幅も見せたいから今のままでいいかな。うん、そのままで」
ディスプレイ業者さんだろうか、デパートのデザイン部員さんだろうか、ショーウィンドウのガラス越しに、作業をする二人の女性のやりとりが小さく聞こえる。
興味津々で作業中のショーウィンドウを覗き込むと、ウィンドウ内の横にある小さな出入り口と、サラリーマンの笑顔が目に入る。
なんだこいつ、安そうなネクタイをしているな、と思ったらガラスに映った自分の姿だった。笑顔の男は、今は眉をしかめている。
気を取り直して、再び小さな出入り口を見つめる。
何を隠そう、その扉を潜ってショーウィンドウの中に入るというのが、幼い頃からの夢の一つでもあった。その扉が開いている……
自分もその穴を潜りぬけてショーウィンドウの中に入ってみたい。中から見る町並みはどんな風に見えるのだろうか、などと考えながら作業を眺めていると、ライティングの指示を出していた女性がこちらを見ているのに気が付いた。
ライトに背を向けているため顔は逆光で判然としないけれど、確かに自分の方を見ている。
一足先に春が訪れたようなショーウィンドウの出来映えに感心した自分は、力強く親指を立てて見せ、そして大きく頷いた。
するとショーウィンドウの中の影は、両の拳を握って可愛いガッツポーズをして見せ、そして同じように大きく頷いた。
その時、確かに感じたのだが、自分の中で「カチリ」と音がして、何かが動き出したような気がした。
まぁ、そんなこともあり、今まで素通りしていたウィンドウディスプレイを見るのが楽しみになってしまった。
その翌朝、会社の後輩がショーウィンドウで見た物と同じ色のコートを着ていたので、つい声をかけた。
「それ今年の色?」
「……」
あまりに意外な人間からの意外なコメントだったのだろう、彼女は目と口を大きく開けたまま、動きがフリーズしてしまった。
再起動をかけるため「似合ってるよ」と言葉を足すと、やや間があって「ですよね~!? 先輩、さすがぁ、わかってますぅ!」と満面の笑みを浮かべて再び動き出した。
いい笑顔だ!
だが、先輩をバンバンと叩くのはやめような、うん。
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