第二章 使命とワーク
どちらの赤ちゃんですか?
プレオープンの日がやって来た。
当日は店長の櫻田と山鹿室長、そして鶴子の3人で行く事になった。
事務の渕上を誘ったが、週末から有給と公休を組み合わせて8連休で海外旅行で心ここにあらずの返事だった。
年末年始に旅費が跳ね上がる前に海外で、のんびりするのだとルンルンだった。
当然だが、近所の料理屋に同僚と食事など眼中にない。
出発の前日まで休憩時間になるとガイドブックを眺めていた。
しかし前日になると高そうな日本酒を綺麗にラッピングてし
「これ、プレオープンのお店さんにお祝い」と言い、どすん鶴子のデスクに置いて帰って行った。
「じゃあ、お土産買って戻るわね。お先に~。」
渕上さん、カッコイイ~
鶴子は渕上のスマートな振る舞いにシビレタと言っていい。
渕上育子は小柄な美女だ。無駄話をしないクールな印象で男ばかりの同僚に愛想笑などしない。
しかし細かな心遣いで営業マンをサポートをしているらしく、彼女に軽口をたたく者はいない。
渕上から預った酒と事務所で用意したご祝儀を持って紀夫の店「紀州」へ到着した。
「いらっしゃいませ~」
麻美の元気な声と笑顔が迎えてくれた。
「こちらのお席にどうぞ」
櫻田店長が商談で遅れたために入店は19時半になってしまった。
到着した時には鶴子達のテーブルだけが空いていて他は満席状態だった。
「お招き頂き、有難う御座います。」
「こちらこそ、ご来店頂き有難う御座います。」
温かい、おしぼりとメニューを渡された。
「あ、これはお店からのお祝いです。」
「まぁ!お気遣い有難う御座います。今日は慣れない厨房でバタバタしてますけど、ゆっくりしてって下さいね。とりあえずビールですか?焼酎やソフトドリンクもありますからね」
「はい、とりあえずビールで」
櫻田店長が勝手にオーダーする。
「かしこまりまりました。」
ふわりと和む笑顔で答えて、厨房へ向かった。
その後、次々と運ばれてくる料理は美しくて旨い物ばかりだった。
紀夫と麻美の夫婦は、せっせと料理を作り運んでくれた。
店内には二人の知り合いや、納品業者の中でも長い付き合いを感じさせる親身な人達で満席になっていたから、自然と暖かい空気に満ちていた。
旨い、旨いと食べて飲み、無料で振舞われるプレオープンにも関わらず、祝儀だと言ってお金を置いて帰る客もいたし、瓶ビールを5ケースも店内に積み上げて「これを明日から客に出して儲けろ」と言いながら引き上げて行く客もいた。所狭しと開店祝いの花が並べられて紀夫達の開業を祝福していた。
来店が一番最後だった鶴子のテーブルが最後の客となった。
居心地が良くて、つい長居をしたかもしれないと感じて席を立とうとした時に紀夫がデザートを運んで来た。
「もう、他のお客さんも帰られたので遠慮しないで、ゆっくりしてって下さい。これ、自家製のアイスクリームです。」
「ああ~美味しそう」
鶴子が瞳を輝かせて言った。
櫻田店長と山鹿室長は浮かせかけた腰を下ろして頭を下げた。
「すみません、お気遣い有難う御座います。それから、改めまして開業おめでとう御座います。」
「有難う御座います。こんなに良い物件を紹介して頂いて感謝してます。」
「いえ、物件をご案内するのは私どもの仕事ですし、先に帰られたお客様を拝見したところ、ご主人の人望の厚さを感じました。明日からも頑張っ下さい」
紀夫は恐縮した様子で照れくさそうに頭をかいた。
一息ついた様子で麻美がやって来た。
「つるちゃん、沢山食べてもらえましたか?」
「はい。このアイスクリームも最高です!」
麻美は本当に嬉しそうな笑顔を見せた。
「良かった。ところで、この近所に赤ちゃんのいるお店があるみたいなんですけど、ご存じないですか?」
皆は一瞬、きょとんとなった。
「赤ちゃんですか?」
「そーだ、僕も聞こうと思っていたんです。僕たちみたいに店の二階に住んでいる夫婦がいるのかなって、」
鶴子たちは3人で顔を見合わせたが、物件に詳しい山鹿室長も首を傾げた。
「僕の記憶では思い当たりませんが」
「毎日、夜になると赤ちゃんの泣き声が聞こえるんですよ。意外と近くで聞こえるんです。」
「お若い感じの「居酒屋 元気」の女将さんに会ったから、赤ちゃんの声が聞こえる話をしたら、小学生のお子さんしかいないし住居は別の場所だって言われました。」
夫婦は「ねっ」と相槌を打った。
櫻田店長が少し考えて、山鹿室長の膝を叩いた。
「山鹿がご近所に聞いてみますよ。つるちゃんと一緒にね。」
酔っぱらっている上に、なにやら櫻田店長の責任感が騒いだようだ。
「鶴子に任せて下さい!近くで聞こえるなら、すぐに見つかりますよ」
「え、いいんですか?なんか管轄外のお仕事をさせるみたいで申し訳ないですけど」
山鹿室長は手を振って笑った。
「気にしないでください。この辺りの入居者さんは、ほとんどウチのお客さんです。久しぶりに挨拶がてら回って見ます。」
こうして、今週の定休日は休日出勤が決まった。
営業日は常に事務所で待機して物件のデータ作成や入居予定者への引き渡し準備をしている。
そこに、物件を探すお客が来れば条件に合った物件へ案内をしなければならないから、もりや不動産の営業部は意外に忙しい。
プレオープンで櫻田店長が買って出た「赤ちゃん探し」は、休日返上する事になるのは当然だが、その事に鶴子が気づいたのは翌日の午後だった。
イケメンの室長と休日出勤は鶴子にとってはイベントの様な感じだった。
「って、事は、山鹿室長と休日出勤なんですね!」
「ツルちゃん、あからさまに嬉しそうでよ」
櫻田店長が口を尖らせて言う。
「当り前じゃないですか!山鹿室長はカッコイイですから」
「そーなの?山鹿くんってカッコイイの?」
サラサラの髪をかき上げながら照れくさそうに山鹿室長が言う。
「別にカッコ良くないですから店長」
実際、山鹿室長はスラリと背が高く小さな顔。
肌の色は透ける様な白さで、カッコイイと言うよりも美しいと言った方が正しい。
一重まぶたの大きな瞳は深く黒い。
だから多くの女性客は山鹿室長と初めて目が合った時に、一度は息を呑む。
そんな山鹿室長が照れくさそうに言った。
「ツルちゃんにカッコイイと言われるのは悪くないですよ。ははは」
鶴子も「ははは」と言ってみた。
「ははは、じゃないよ。僕なんか、つるちゃんに太った中年と思われてるんだからね」
そう言えば初めて会った時に心で思った事を言い当てられた事を思い出した。
「店長、どうして私が考えてる事がわかるんですか!?」
「やっぱり、太った中年って思ってるんだね」
「え?」
もう仕方ないといった風に山鹿室長が会話に割って入った。
「ツルちゃん、店長は2年前までスマートだったのに急に太ったから、みんなに太った中年と思われてると思い込んでるんだよ。」
ええー?ただの偶然だったの??
「いいよ、いいよ。若くてスマートな二人で赤ちゃん探にーしに行って下さいよ」
「ほら店長、勝手にイジけないで下さい。来週には渕上さんも帰って来ますから、元気出してください」
「渕上ちゃんだけは「お腹が出ても可愛い」って言ってくれるんだ。早く帰って来てほしいよ」
櫻田店長はお腹の肉をモミながらデスクに向かった。
櫻田店長は渕上ファンだったんだ、うふふ。私と一緒だ。
鶴子は櫻田店長を、ちょっと可愛いと思った。
「ツルちゃん、月曜日の10時に集合しよう」
キュンキュンするー
「はいっ」と大きな声で返事をした。
鶴子は早起きをして準備を始めた。
今日は山鹿室長と「泣き声の赤ちゃん探し」の日だ。
不動産部へ移動になる前に買った新品のジャケットを羽織った。
今日は山鹿室長と一緒に仕事だもんね。
移動の事例が出た日から、目覚ましが鳴る前から起き出しているなんて事は初めてかもしれないと思うと笑えてきた。
待ち合わせの喫茶店に入ると山鹿室長が先に座っていた。
「お早うございます」
「おはよう、つるちゃん早いね。40分も早く到着だよ」
「早く来てモーニングを食べようと思いまして」
「ははは、だよね。僕も同じ」
二人は繁華街の中にある「焼き立てパン 森の木々もくもく」で待ち合わせた。ここがスタートになったのは紀夫の店舗の裏手に当たる店だからだ。
メニューは店内に並ぶパンとコーヒーのセットまたは
今日のパン3種類から選ぶセット
Aセットは
クロックムッシュとサラダとコーヒー
Bセットは
クロワッサン(プレーンとチョコ)サラダとコーヒー
Cセットは
トースト(ゆで卵付き)サラダとコーヒー
各セット、サラダはヨーグルトに交換可能
コーヒーはジュースに交換可能
真剣にメニューを見つめて迷っていると、レジ台の向こうから声を掛けられた。
「もりや不動産の山鹿さん。久しぶりですね。」
仕事を一段落ついた感じで、この店の店主が現れた。
「お早うございます。店長さん、ご無沙汰しています。」
「珍しいですね。奥さんとモーニングですか?」
鶴子は飛び上がるほど驚いた。
しかし山鹿室長は、どこ吹く風と言った風に笑った。
「あはは、違いますよ。新人営業の島津くんです。」
チラりと目配せされて持参の「もりや不動産」ロゴ入りタオルを取り出した。
「あ、そーなの? 同僚さんですか。」
「はじめまして、島津と申します。」
本当はキャーキャーと飛び回りたいところだが、平常心でタオルを渡した。
山鹿室長は「うん」と頷いて言った。
「今日は、この辺りのテナントさんにご挨拶周りの予定なんです。仕事を始める前に、こちらのパンを食べたくお邪魔したんです。雨漏りとか、近隣トラブルとか、ご不便ありませんか?」
「そうですねぇ。北側の雨どいが詰まってるみたいで滝みたいに水が落ちる所があるくらいかなぁ」
胸のポケットから手帳を取り出してメモを取る。
「そうですか、分かりました。大家さんにお知らせしておきます。梅雨時までに直して頂きましょう。」
山鹿室長が言うと必ず実行してもらえる気がする。
「ところで、この近所に赤ちゃんがいるお宅を知りませんか?」
なんとも自然に切り出した。
「赤ちゃんですか?う~ん、聞きませんね。この辺りは店舗ばかりだしね。」
パン屋の店長は少し不思議そうに山鹿室長の顔を見た。
「何かあったの?」
「いえ、お子さん連れのご夫婦が近所に入居を検討されてまして、周りに同年代の子供がいた方がイイと言われていたもので。」
二コりと笑顔で手帳を胸ポケットにしまった。
この笑顔を向けられると、小さな疑問など霧散してしまう。
これで、この一帯に不気味な噂が立つ事は無い。
鶴子はAセットをオーダーし、山鹿室長はCセットをオーダーした。
焼きたてのパンに幸せを感じ、ご機嫌な朝食になった。
その後、紀夫の店周辺を聞き込みしたが「赤ちゃん」の居る店や家を見つける事は出来なかった。
「どうしようかな。一応、ここも聞いてみようかな」
「うなぎ屋 浜浜」は60代後半の夫婦の店だ。
可能性は低いが、娘夫婦などが子連れで帰省しているかもしれない。
鶴子はロゴ入りタオルを取り出して「行きましょう」と言う目線を送った時に背後から声を掛けられた。
「不動産屋さんか?」
見ると、うなぎ屋 浜浜の大将だった。
「こんにちは、もりや不動産の山鹿と島津です。今日は、この周辺のお客様にご挨拶周りをしているんです。」
「そうか、まあ入りな」
そう言って店のスライドドアを開けてくれた。
「仕込みの時間帯に、すみません」
申し訳なさそうに粗品を手渡した。
「建物や近隣のトラブルはありませんか?」
「別にないよ。隣の若いのも(紀夫達)丁寧にあいさつに来てくれたしのぉ。困った事って言ったら足腰が思うようにならん事ぐらいじゃ。いつ引退しようかばかり考えておるんじゃ」
「いえいえ、大将は七福通りの重鎮ですから。まだまだ頑張って頂かないと!」
「もう38年になるからのぉ、開業した時は若かったが人生はあっと言う間じゃ」
大将は上着を脱ぐと前掛けを締めながら言った。
「そう言えば最近、赤ん坊の声が聞こえるが隣の若い夫婦には子供がおるみたいじゃ。夜泣きがひどいのぉ。」
鶴子は「あっ」となったが山鹿室長に小さく「し」と止められた。
「赤ちゃんの夜泣きですか?」
「毎晩な」と言いながら小さなため息をついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます