物件案内

カウンターの猫、シロが耳を外へ向けた後に、音もなく床に飛び降りた。

そして、するりと物陰へ姿をけしたと同時に、お客様の入店を知らせるアラーム音が聞こえた 。

さらさらの前髪をかき上げて、上着の内ポケットに入った名刺入れをチラりと確認した山鹿室長が声をかけてくれた。


「ツルちゃん、デビューだよ」


一瞬、キュンとしたけれど「デビューだよ」の意味を実感すると余裕がなくなってしまった。

接客カウンターの前には笑顔のお客様が立っていた。

仲の良さそうな明るい雰囲気に包まれている夫婦のようだった。


ああ、やっぱり、心細い。


「いらっしゃいませ」

営業スマイルの山鹿室長は、これまたカッコイイのだが緊張のあまり鶴子の声は思わず声が上ずってしまった。

「びぃらっしゃいませ」

夫婦は、すぐに鶴子の緊張を察した。

「新人さんですか?」


は、はずかいし。


「は、はい、宜しくお願い致します。」

緊張で、おろおろしている鶴子に対して、お客様は落ち着いている。


落ち着けわたし!


「お客様、今日はどの様な物件をお探しですか?」

ペンとアンケート用紙を差し出した。


「飲食店を始めたいんです。駅から近くて、この事務所周辺で居抜き物件があれば紹介して頂きたいと思いまして」


「かしこまりました、お店ですね」


物件のファイルを開きながら、店舗物件を検索した。


「ご予算や規模は、どの様にお考えですか?」

「夫婦二人で切り盛りする予定なので、15坪~25坪程度の大きさで、家賃は安い方が助かります。」


「ツルちゃん、どうですか?」

隣でサポートをしてくれている山鹿室長が余裕の笑顔で言う。


ああ、お客様の前でも、ツルちゃんと呼ばれるとは思っていなかった。


「ツルちゃん、どうですか?」


お客様にも、ツルちゃん言われた・・・。


「い、居抜きですと、3件の物件が御座います。

18坪で21万円、20坪で18万円、22坪で13万2千円の3件です」


「22坪で13万2千円ですか?」

夫婦で顔を見合わせて、驚きの声をあげた。

「なんで、そんなに安いんですか? 訳あり物件ですか?」


物件の案内書には、特に事故物件の記載は見当たらなかった。

山鹿室長は笑顔を絶やさずに答えた。

「ちょっと建物が古いんです。築43年の建物です。

22坪と言いましたが2階に4畳半と8畳のダイニングキッチン、風呂トイレも付いていますので、店舗は15坪弱のサイズです。

当店で管理が始まったのは15年前ですが、15年間に事故は起きていません。

その前の記録は残っていないので、確認はできませんが、

宜しければ店舗を見に行く事は出来ます。」


「行きます!」


ご主人が勢いよく立ち上がり嬉しそうにする姿を見て、奥さんも嬉しそうに立ち上がった。


ここからは本当に一人で接客になる。

「一人で行ける?」

心配そうに言う山鹿室長から車のカギを受け取った。

「大丈夫です! 行って来ます。」


初の案内に緊張したけれど、お客様の楽しい雰囲気にやる気が湧いて来た。


八犬駅から徒歩8分の所にある「七福通り」とは呼ばれる古い商店街

居抜き可能な店舗

築43年 22坪で13万2千円

周辺も居酒屋やバルが立ち並び、賑やかな繁華街

飲食店には持って来いの物件に思えた。


ご主人は驚きの声を上げた

「厨房は水道と電気さえ契約すれば、すぐに使える状態に見えますよ。

居抜きって事は、これ全部使っても構わないんですよね。」


「もちろんです。不要な物はお客様の方で処分して頂く事になりますが、使える物は使って頂いて結構ですよ」


カウンターテーブルの上に、椅子を逆さに上げられていて店内の床は綺麗に掃除されているのがわかる。


「あら~、立派なカウンター」

奥さんは店内を歩き回り、カウンターの端っこの椅子だけを、下に降ろした。


「壁紙だけ貼り変えたら、すぐにOPENできるね」


そう言いながら椅子に座り、カウンターテーブルを撫でた。

この物件の2階には小さなキッチンと風呂、トイレが付いている。


この日に仮契約を交わし1週間後に引き渡しが決まった。


夫婦は、契約物件の13万2千円と別にアパート代を払うのはもったいないと言い、引き渡し後は2階の住居スペースで暮らす事になった。





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