#No.10
ゴールの前に立てば、頭の中をリセットできる――
そういうアスリートとしての集中力と割り切りが、自分には備わっていると思っていた。しかし、それも守るべきゴール次第らしい。クラスメイトたちの思いを受けて守護神を演じてみても、気持ちはまったく冷めたままでいる。
どろりとした液体が頭蓋骨の中を流れている感覚。不快なドロドロがスムーズな思考を阻害する。その粘り気を取り払おうと考えを遠くへ飛ばしてみると、かえって粘度を増していくのだから気分が悪い。ああ、邪魔だ。無駄なことは考えたくない。
邪念に襲われていても、試合の展開に影響はなかった。キャッキャとボールを回す同級生たちは、中盤でボールをこねくり回すばかりで、決定機を作りだしてくれない。キーパーが、経験者が、声を出してリードすべき場面なのだろうけれど、くだらないボール遊びに介入するつもりにはなれなかった。
それに声出しなら、フェンスの外でギャラリーを形作る、クラスメイトの男子たちが担っている。校舎に垂直に作られたピッチの都合、陣取るのは相手のゴール裏なのだが、サッカー通を気取ろうとする声が反対側のゴールを守る自分にもよく届いていた。
そのギャラリーこそが、試合をつまらなくする正体なのだから皮肉なものだ。
公哉の姿は、見当たらない。
「汐入さん!」
水崎さんの声で、ふと我に返った。
中途半端に蹴りだされた相手のパスが、ころころとこちらまで転がってきたのだ。
「よし、経験者だぞ!」
「いけ、やってやれ!」
「決めろ、汐入!」
部外者たちの声が大きくなる。自分がボールを保持したときだけは、「頑張れ」とか「緊張しないで」とか、ほかの女子にかけられる優しい応援が一切ない。中年のサポーターがスタンドから檄を入れるのと似たような言葉をかけてくる。
「男子が混じっているぞ」と茶々を入れる声も、聞き逃しはしない。ゴールキーパーの地獄耳は職業病だ。
何にせよ、連中の期待に応えてやる義理はない。適当にパスを転がして、水崎さんに再び受け取ってもらう。奴らは、求めていたプレーが見られずに落胆し、口々に不平を漏らす。
ボールを受けた水崎さんが身体を前に向けて、ボールを蹴り出す。
日頃のイメージから、この場でも深い理由なく彼女を信頼してしまっている。でも、その実彼女も楽しむことを楽しんでいると思うと、パスを出したことをわずかに後悔する。ギャラリーには、きのう電車で見かけた彼も加わっている。果たして彼女は、真面目にサッカーをしてくれているのだろうか?
彼女への曖昧な信頼と同じように、これも無意味な「?」であればいいのに。
ボール回しは、子どもの遊びの如く。ボールが来ないからと退屈して、平気でギャラリーに手を振るメンバーもいる。それらに比べれば、水崎さんのプレーはまだ真剣でありがたい。とはいえ、真面目にボールを追いかけているように見えて、どうにも、その走りから可憐さが拭い切れていない。
意外にも、展開はだんだんと自チーム有利に傾きだした。
運動が苦手と見られる相手の選手がキックを空振りし、センターライン付近でボールをキープする場面ができた。不意にできたチャンスに、楔のパスが入ろうとするが、相手に弾かれて自陣にボールが戻る。これを自分が前に出て受け取り、今度こそ縦に鋭くパスを入れる。反応した水崎さんが追いかけると、優しく軌道を変えるようなシュートが相手キーパーの脇を抜けていく。
おお、決まっちゃった。
クラスメイトに囲われた中心で、結わえた髪を揺らしながら笑顔を見せる水崎さんは、悔しいけれどやっぱり可愛い。
ただ、できることなら、彼にピースサインを向ける姿は見たくなかった。
顔を背けると、そちらにもまた、見たくないものが見えてしまう。
体育館へと続く通路の金網の向こう、たったひとりで、ピッチを見守る姿がある。ジャージのポケットに手を突っ込み、退屈そうな表情。自分が守るゴールに誰よりも近い位置で、試合を見守ろうとしている。
公哉だ。
いつ以来だろうか、公哉がグローブを付けた自分を見てくれているのは。
果音の言葉が耳の奥で反響しながら再生される。
「本気を出してみてもいいんじゃない?」
「島倉にいいトコロ見せてやればいいじゃん」
「最後の年に賭けてみてもいいと思うよ?」
「素直になりなさいって」
「うかうかしていると危ういよ?」
ダメだ、こんなのは雑念だ。
変なことを考えてはいけない。
いま下手なことをしたら、いつかの如く針の筵に座らされる。
試合が中央から再開される。相手のチームは、キックオフのおかげで安定してボールを保持できている。何度かバックパスを回して呼吸を整えると、いよいよ前線へとボールを運びはじめる。
「来るよ、走って!」
「いまのうちに取り返そう!」
男子生徒からのヤジは、ピンチを未然に防ぐためには的確な指示とも言えた。ところが、その要求に応えられる選手はうちのクラスにはいない。懸命にボールを奪おうとした水崎さんも躱されて、数的不利でゴール前へと迫られる。
「汐入、止めろ!」
「前に出ろ!」
思った通り、自分のときだけはヤジの性格が違うんだよな。
でも、やってやろうじゃないの。
さんざん舐めてくれたんだから、少しくらい見せつけてやってもバチは当たるまい。
ペナルティエリア手前の相手が持つボールをめがけて、走り出す。突如迫ってきたキーパーに焦り、慌ててパスを出そうと構えを直すが、それでは遅い。足の向きを変えるタイミングを計って、ボールを掠め取る。
一人目、もう追ってはこない。
「すげえ、さすが守護神だ!」
二人目、攻撃が終わったと思って自分から離れていった。
「キーパーが中央突破するぞ!」
三人目、この程度の相手を抜き去るのにフェイントなど必要ない。
「何あれ、カッコよくて逆に笑えるんだけど」
四人目、危機感が足りないのか、離れたところで歩いている。
「そのまま決めちまえ!」
五人目、キーパーとの一対一。ダメだよ、キーパーの仕事は、ゴール前に貼りついているだけでは務まらない。飛び出して身体を大きく見せる泥臭い仕事が、女子高校生だろうと初歩的な技術である。
舐めるな。
ピースなんかしながら、猫を被った走り方で、サッカーをしようとするな。
守護神の自覚を、鍛えてきた技術を、「男っぽい」で片付けようとするな。
誰かのための怒りを、自分のせいだったことにして終わらせようとするな。
力を込めて振り抜く右足は、あえて足首の角度を調節して、ゴールには吸い込まれないようにする。わざと浮かび上がる軌道を描かせて、ゴールのその先、暢気なギャラリーが貼りついている金網に狙いを定める。パワーなら充分だ、ゴールキックで鍛えてきた。
舐めるなよ!
「ああ、ふかした!」
シュートを放つと同時に声を上げて、大げさに悔しがって見せる。
狙い通りにクロスバーを越えていったボールは、雷でも落ちたかのような大きな音を響かせて、金網を揺らした。近くにいた数人の観衆は、怯んで数歩後ずさりする。
「うわぁ、男のシュートより強いんじゃね?」
誰かが強がったように呟く。懲りてはいないようだ。
チームメイトからは「惜しい」とか「すごい」とか聞こえてくるが、応えはしない。大人げないプレーが恥ずかしくなる前に、自陣のゴールへと戻るのだ。腰に手を置いて、一仕事を終えたふうに恰好つける。
しかし、熱くなった心身の温度が下がり切る前に、彼の姿を認めてしまう。
持ち場に戻る歩みを直角に曲げて、体育館に続く通路へと向かっていく。
金網に飛び掛かり、彼を逃すまいとしがみついて威嚇した。
「おい、公哉。試合を観に来い、トップの試合だ。こんなところでやるサッカーじゃなくて、まともなプレーを見せてやる。だから――」
大声を出して脅してみても、無表情は崩れない。じっとこちらを見つめて、むしろ睨み返しているかに見える。ともすれば冷酷な態度とも感じられるが、三年間で離れていった距離を思えば、彼はとても優しかった。
それなのにこんなことを言ってしまうなんて、失礼かな。迷惑かな。
ごめんね。
「わたしを見ろ!」
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