月夜のピアノ・クラシカル

みずみやこ

月夜のピアノ・クラシカル


 人って、ストレスがたまる生き物だと思う。


 忙し過ぎる日々を送っているせいで、自分が何なのか時々分からなくなる。今日は何日だったっけ。ああ、今日はあの大事なテスト。明日は英語のスピーチ。明後日は……。


 高校生になって、怒涛の二年が過ぎ、あっという間に三年生だ。あれほど大好きだった家にもいづらい。学校の友達や先生と話した記憶しか、ここ最近ないな。


 それが私の普通だと思っていたのだから。


 気付かないうちに、嫌なもやもやがたまっていたなんて。


 昔から「夢中になると色々見失う」っていう私の性格は確かに理解して受け止めようともしたけど。


 だって、何でこんなにイライラしているのか、何でこんなに大好きな友達にサイテイなこと言えるのか、分からないんなら。

 私はやっぱり、私を見失ってる。




 その友達の名前は、菜々子。昔から音楽関係で仲が良かった。ピアノのレベル差は無かった。喧嘩した時に限って、走馬灯がよぎる。私の家の電子ピアノで毎日連弾しては、楽しくって好き勝手に作曲したりしたっけ。小学四年生の話だ。夢のようだった。夢だったかも。でも、今でもはっきり、覚えているんだ。


 それに、一緒に通っているピアノ教室の発表会でも連弾をやったなあ。二人の練習時間が都合つかなくて大変だったな! でも、各々で練習してきてそれをいざ合わせると、ぴったり息が合うのが嬉しくてしょうがなくて、発表会でも思わずニコニコ…。ちょっとミスしちゃったけど、菜々子も笑ってた。




 もしかして。

 もしかしたら。


 このままずっと、会えなかったら。



 喧嘩の現場は音楽室。文化祭の合唱コンクール、伴奏者に決まっていた私だったけれど、最近練習不足で上手くできるか不安だった。それで相談したのが菜々子だった。彼女は別クラスの伴奏を二曲担当している。どうしようかな、と言ったら、えみなら大丈夫、できるって、と笑顔で励まされた。でも私には、そう思える前向きな自信がなかった。

 そう、やっぱりストレスのせいで。


「よくそんなことが言えるよね」なんて。

「菜々子はこんな時期でもピアノ練習できてるんだよね、大丈夫なの? あなたこそ」…なんて。


 最低。ひどい。菜々子の事は、私が一番知ってるんだって踏んでたくせに。

 何もかもこのイライラのせいにしたいよ。でも結局私自身のせいじゃん。馬鹿だよ。いったいどれだけ親友のことを妬んだら気が済むの? レベルに差が開いてる事は認めてるのに。菜々子の方が、私より上手くなってる。こんな生活に翻弄されてる私が、私が……。


「うううっ」


 音楽室の中央に置いてある古いグランドピアノの蓋を乱暴に開いた。この黒と白の鍵盤、久しぶりに見た。懐かしい。高校一年生の時、もう一個椅子を出してきて、二人で……。


 もう、考えたくない。

 菜々子のことも、思い出したくない。


「っ!!」


 GRAVE《グラーベ》。重々しく。


 左手の和音と右手の和音が不吉に共鳴した。


 ––ソナタ悲愴、第一楽章。


 和音の後は、p《ピアノ》で小さく絶望的な和音の繰り返し。提示部は、左手が指揮をとる。


 最初は短調なのに、突然明るく日が差すようになる。

 しかしそれは一瞬。奏者が戦慄するようなメロディと苦しい和音。私は力づくで弾いた。


 手首が痛い。目尻が、鼻が痛い。頬が冷たい。鍵盤に涙が落ちた。音がうるさい。けたたましい。嫌だ。こんな音じゃなかった。もう一度呼ばなきゃ。あの日、花のワルツを弾いたあの日の景色を…。小鳥達、動物たちを呼んで、あの綺麗な白いグランドピアノで、のびのび弾きたい。



 展開部に差し掛かった。私は集中して、あの森を呼び起こした。


 森は荒れていた。

 嵐だ。ごうごうと、ピアノをかき消す苦しい風が、黒いピアノを襲う。あれ? 音がへん。歪んでる。まっすぐしゃない。汚い。こんなの私の音じゃない。望んだピアノの音じゃない。誰にも聞かせられない、こんなひどい音。これが、これが私の音なのか、な。


 指が痛い。鍵盤が重い。一番速くて爽快なこのレガートの所、途切れ途切れだし気持ち悪い音。


 これ以上弾けないよ。

 ピアノが…嫌いになってしまいそう。



 別れたくない。

 何からも離れたくないのに。


 乱暴に蓋を閉めた。ガコォンッ! 古いピアノはがたがたと震える。やめてよ、って言ってるみたい。この椅子も不安定だ。早く立ってよ、って怒ってる。私は立ち上がって、走って音楽室を出た。



 ピアノは大切にしなきゃいけないんだよ、えみちゃん。


 こんな力を込めて弾いちゃ、気持ちがこもらないよ。

 ほらもっと、手首の力を抜いて、指の重みだけを乗せるんだ。


 そうそう! めちゃくちゃ綺麗だね、えみちゃんの「花のワルツ」! もっと弾いてよ、この先もずーっと……。



 嫌だよ。できない。もう無理になっちゃった。


 走っていると、ブレザーが邪魔。最近冬服に変わったばかりで慣れないし。足が寒い。外に出ると既に外は暗い。冬じゃあるまいし。もう星が瞬いている。綺麗だな。自分に自信を持って光ってるんだな。「今の私が一番素敵!」って、思っていられるのは幸せなんだよ、ねえ、星たち。



 何となく空を見上げていたら、歩調が落ち着いていた。


 今日は少し欠けた月。眩しい。太陽が明るいおかげか。でもうるさい眩しさじゃない。


「悲愴」は重い。「月光」はセンチメンタル。どっちも綺麗だし凄い。けれど、この二曲は一緒に聴くものじゃない。孤独なのだ。この月みたい。そして今の私。



 だから納得できないのは。

 今私の脳内で、「悲愴」と「月光」が渦巻いていること。




 ♪




 夜中、意を決してスマートフォンを構えたけど、やっぱり勇気が出なくて画面を触る事しかできなかった。



 ごめんね、っていえば済むのに。

 まだ私は、菜々子に嫌われることを恐れてる。


 まだ別れたくない。

 別れなんて、必要ないのに。

 ショパンだって、誰だって「別れは悲しい」事を音楽に表現していたのに。


 …簡単に離れられない仲だと安心していたのか、私。






 ……いつのまにか寝落ちしていたみたいだ。

 疲れ果てた体が一気に沈んでいくのを感じる。真っ暗闇だ。目を閉じているのか、開いているのかわからない。ただそこに突っ立っていた。


 夜だ。たった一人で迎える夜。寂しさだけが漂う真夜中。…ああ、今日は満月か。流石は鏡月、ひどく残念な顔をした私を映してる。


 ……あれ、何か、音が。

 ………聞こえてくるような。


 それは、あの白いグランドピアノの音。

 透明にすき通り、聴くものの心を透かして通り抜けていくような。


 いつか私と菜々子が、笑い合って、一緒になって、絆を作った音。


 楽しかったなあ。

 夢みたいだった。

 どうかもう一度だけでも……。




 なのに。

 涙が溢れるような悲しい音だ。これは、…悲愴第二楽章。一楽章の様に絶望的な音じゃない。優しい。優しいからこそ、泣けてくる。こんな音、初めて聞いたよ。ねえ菜々子。あなたが弾いているの? そうだよ、こんなにも綺麗なレガートを出せるのはあなただけ。



 徐々に見えてきた。眩いほど白いグランドピアノだ。


 椅子に座っている女の子は、こちらに気づかない様子で一心不乱に鍵盤を叩いている。近付くと、顔がはっきり見えるようになった。間違いなく菜々子だ。世にもかなしい表情で、深呼吸をするように上半身を上下させて弾いていた。それを見て、泣き崩れそうになる。ねえ菜々子、どうしてそんなにも………壊れそうなの。




 すぐそばに寄ると、菜々子は弾くのをやめてこちらを振り返った。そして、びっくりしたように言う。

「どうしたの? えみ…」


 私はとっさにごめんねの言葉をかけようとした。けれど、泣き喚き始めた喉が邪魔する。小さな子供のように大きな声を出して泣いたのはいつぶりだろう。菜々子みたいに上手なりたい。もっと、もっともっともっとピアノを弾きたい。


 一緒に…


「…一緒に、やろう」


 さっきまで無かったはずの椅子が目の前に。私はまともに返事もできないまま、椅子に座って構えた。すると、闇だった世界が一気に生まれ変わった。


 星空だ。


 今までに見たこともない、無数の星達。きらきら、きらきら。降ってきそうだ。


 もしこれをいっぱいに浴びられるなら、私はもっと自分に自信を持ててる。もっと輝けるんだ。


 そして、私達の思惑は一致した。



 菜々子が、私の得意な「花のワルツ」に合わせて作った連弾曲。


 いつだってこう言う風に、言葉にしないまま心を通じ合わせてきた。それがやり方だった。けれど、私たちは慣れないやり方で喧嘩をしてしまったんだ。だからこじれた。


 ソロのワルツは、オーケストラでふんわり聴こえてくる、細かいフレーズや飾り物のようなメロディは含まれない。けれどこの連弾曲「繋ぎの花ワルツ」は、指が多く大変な分、音も多くなるので壮大感が増すんだ。彼女が、四年前くらいにつくった楽譜を見せてくれてから、ずっと好き。


 私は弾きながら、菜々子の指をちらりと見た。


 相変わらず綺麗な指だなあ。速い所も、滑らかにかつきっぱりと弾いてみせる。いつまでも、見てられる。私なんかよりも、もっともっと星を浴びてきたんだなあ。きらきらしているもん。






 こうしてのびのび弾くと、溜め込んだストレスが逃げていくみたい。星光る闇に、音色と一緒に吸い込まれてゆく。さよならぁ、叫んでみたり。



 さよう、なら……


 気が付くと、あれ。ピアノが無い。


 星も見えない。薄い雲に隠れた、欠けた満月。遠ざかるピアノの音色。夢の時間はあっという間。これは……「月光」? 菜々子の音だ。バラバラで聴きにくい。壊れかけてる。どうしよう、菜々子は傷ついてる。傷だらけだ。泣いて泣いて涙は枯れ、どうしたら良いかわからずふらついてる…。



 私のせい、私のせいで……!



 全部私が、悪かったの……。





 ♪





 夢が覚めて、朝。



 謝ろう。

 今日絶対に、菜々子に言うんだ。




 朝の学校はいつもと同じ音を奏でているけど、今日は私の気持ちが違うからか、少し変わった音がする。


 朝のホームルーム。六時間の授業。終業のチャイム。いつもと変わらぬゆったりとした空気。

 友達と別れ、私は真っ直ぐ音楽室へ向かう。





 ずっと昔から、訊きたいことがあったんだ。

 菜々子は何がしたいのかな、って。


 どうしてあんなに壊れそうな音を奏でているの。何かが怖いの。どうして私と弾くのをやめたら、暗闇のなかで泣き始めてしまったの。ねえ、あなたが見せてくれた月の光は、誰のための光なの。自分のためじゃないの。


 菜々子の弾くピアノは、私とは違う–––––。


 だからって、親友として引け目を感じたりしない。菜々子のピアノはずっと最高だ。彼女の弾く音色には、聴く人全員をうっとりさせてしまう美しさがある。私もその一人だ。


 だけど。

 今まで、同じピアノで弾いたことは何度もあった。「繋ぎの花ワルツ」。それが、二人それぞれの景色をつなぎ合わせてくれる役割を果たしてくれた。私は菜々子の世界を、菜々子は私の世界を見る––––––言葉を交わさなくても、意思が交わしあえたのはそのおかげなんだ。



 だからあの夢で、ぼろぼろになってしまった菜々子の姿を目の当たりにした。



 なんとか出来るのは、きっと私しかいない。





 ♪




 音楽室に、やっぱり菜々子はいた。


 昨日私が乱暴にしてしまった黒い大きなグランドピアノに向かう、菜々子の華奢な身体。長い髪は鍵盤を叩くたびに、風に揺れてふわり。これぞピアニストだ。


 そんな姿をじっと見続けていたら、胸が締めつけられ、苦しくなった。私はなんてことをしてしまったんだろう、今すぐごめんなさいと謝りたい。声が出ない。


 一体どれだけの重荷が、彼女の小さな背中にのしかかっているのだろうか。想像を絶する大きな壁。私だけでは到底、彼女の世界に足を踏み込めない。


 ––––と、知った。



 だけど、言葉をなくす自分のそばには、もう一人の自分がいて。

 ずっと奈々子と一緒にいたいよと、訴えてる。


「ごめんね……最低なこと言って傷つけて…。菜々子… ………」


 菜々子の和音ががらんと崩れた。びっくりした顔で、こちらを振り返る菜々子……大きな瞳から、ぽろぽろ涙を零しながら。私は思わず駆け寄った。辛いんだよね。今すぐ逃げ出したくなるくらいに。厚い壁に手を当てる。ひんやりと冷たい。でも絶対に、離れない。鍵盤に、高いドの音。温かいピアノ。そのまま菜々子を抱きしめるように、音を一音一音聴かせた。



 月の光、純白のグランドピアノ、きらきらと光を絶やさない星々。


 菜々子、見てる?


 隣で一緒になって。流れ星を全身に浴びながら。風が吹いて、輝きは音を立てる。



 うん、見てるよ、えみ。


 私は、菜々子とこうやって、一緒の光を浴びていたいんだ。


 もうお互いが知らない所で泣かないように。



 私はえみのピアノを、

 私は菜々子のピアノを。

 二人の世界が隔絶することのないように。


 ずっと一緒に、繋いでゆこう。





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