20201017:彼とマンボウの、可愛いと食欲と

【第135回 二代目フリーワンライ企画】

<お題>

 ナンセンス

 しょうか(変換自由):消化

 食べちゃいたいくらい可愛い

 紫苑の花

 使い古された言葉


<ジャンル>

 近未来SF。多分。


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 初めて会った時から、彼は普通とは言い難かった。とはいえ、そういう場所でもあったから彼が特別浮いていたというわけでもない。

「私はマンボウを極めたいと考えている」

 よろしくと差し出された手を惰性のように握り返すと。

「では、同じ研究室になった記念に食事にでも行こうではないか」

 彼は早速、踵を返した。

「あの、僕はお酒は苦手で」

「安心したまえ。食べるのは刺身だ。マンボウの」

 マンボウ?

 きょとんとした僕を彼は見返しにやりと笑った。実に実に嫌みったらしく楽しそうな、彼らしい笑みだった。

「食べちゃいたいくらい可愛いマンボウの、実際に食べたらほっぺたが落っこちる美味さの刺身だ」

 ――連れて行かれた居酒屋で出された刺身は、信じられないことに美味かった。


 *


 ホワイトボードに彼はあっと言う間にマンボウを描いた。僕が深海魚と浅海魚の違いについて文献を漁っている横で、彼は勝手に講義を始める。

「マンボウというのはフグの仲間だ。浅海にいるイメージがあるが、水深200m程度の深海でも個体が見つかっている。いざとなるとすさまじいスピードを出すという話もあるが、多くの場合、海流にただ流される。岩に激突することもある」

 彼のマンボウ愛はとにかく熱く、僕はしばしば資料を捲る手を止めた。彼はそんな僕を見て、良い生徒がいたとばかりにさらに講義に熱を加えた。

「稀に漁師の網にかかることもある。しかし、少しの傷でも致命傷になることもあり、また鮮度の落ちがすさまじく早い。美味くとも食用として出回らない理由だな」

 魚好きは何故食欲とセットなのだろう。僕はその疑問の答えを未だに見つけられないでいる。


 *


 研究室での日々が季節を一回りして進路を考えなければならなくなった頃、彼のマンボウ愛はマンボウを調べることではついに飽き足らなくなったようだった。早々に院への進学へと梶を切った彼は『マンボウの生態』を卒業論文として早々に仕上げると、研究室に姿を見せることが減った。

 会うのはもっぱら食堂や図書室で、彼は他学部の教授や院生と一緒にいることが多かった。

 ――いつからバイオ系研究室へ足を運んでいたのは僕は知らない。

 バイオ系だけじゃない。遺伝子学研究室やら、鳥類学研究室やら、物理学科の熱力学やら物性物理やら流体力学なんてところにまで顔を出しているらしい。

「お前、魚を鳥みたいに飛ばす気か?」

 久々に顔を見せたホームの魚類生態学研究室で、英語論文の読解に飽いた僕がSF小説ばりの冗談をかますと、彼は僅かに目を見開いて。すぐににやりと企むような笑みを浮かべた。

「ナンセンスな質問だな。飛ばすんじゃない。大気中で泳がせるんだ」

 多分僕は、真顔で彼を見返した。瞬きも何度もしたと思う。言っている意味がわからなかった。僕は冗談のつもりだった。

「マンボウの海中での浮き沈みは、浮き袋を利用せずゼラチン質で行っているらしいと報告がある。ならば、ゼラチン質を空気より軽いものにすることが出来れば、浮くことが出来る」

 彼はいつもの通りホワイトボードに書き始める。陸があり、海があり、矢印があり、マンボウがいる。マンボウは海から空へ。

「空気に出しただけでは死んでしまうから、肺呼吸が必要だな。そこで肺魚の遺伝子を導入する。遺伝子操作が要る。マンボウの受精卵に肺魚の遺伝子を導入するんだ。ゼラチン質をどのような物質に変えれば空気よりも軽くなるかも今アイディアを募っているところだ」

 よくわかったな。彼の顔はそう言っていたと僕は思う。

「本気か」

 彼の笑みは深まっていく。奇人変人ばかりの生物学系研究室の中でも、彼の奇人ぶりはおそらく群を抜いていた。


「使い古された言葉だが」

 無精髭に覆われ、ボサボサの頭を空調の風に揺らしながら、実に、実に爽やかな笑顔を浮かべて見せた。

「信じるものは救われるのさ」

 彼は未来を信じていた。


 *


 それから数年。彼は彼の作品と共に助手もつけずに孤独に研究を続けたとだけ聞いていた。僕はバイオ関係の企業に研究者として就職し、大学に残った彼との連絡は次第に少なくなっていった。

 だだっ広い野っ原に枠とビニールをかけただけの温室だった。泳ぐマンボウを背にし、無精髭に覆われ、ボサボサの頭を空調の風に揺らしている彼の写真は年賀状で受け取っていた。ススキが揺れてタンポポが揺れて紫苑の花が咲き乱れる中をマンボウが漂っている、SFXを駆使したような写真だった。

 その温室に衣服だけを残して彼は消えた。

 巨大なマンボウの骨格が衣服の側にバラバラになって残っていたという。

 そして彼は失踪者となった。


 *


 彼が失踪宣告を受けてから今日で七年が経つ。

 僕は衣服を骨壺に詰めた。

 彼の実家は千葉の太平洋を望む一角にあったという。両親共にすでになく、遠い親戚という女性が近所の寺の彼の家の墓へと骨壺を収める算段をつけてくれた。

「失踪って嫌ですね。どこかからひょっこり戻ってきそうで」

 業者が『蓋』を退かすのを見ながら、女性はぼつりと言葉を零す。

 僕はマンボウ柄の風呂敷を見下ろしながら、淡く笑う。

「戻ってこないと思いますよ」

「七年ですものね」

 空魚の群れが空高くを泳いでいく。空魚の群れの周りはドローンが囲んでいる。一つの現場で仕事を終えた空魚は、次の現場――畑――へそうして移動していくのだ。

「年月もですがね」

「確信があるのですか?」

「海のマンボウは意外なものも食べるんですよ。蟹とか。食べてちゃんと消化します」

「え?」

 ヤツの残した遺伝子組み替え技術は、いくつかの道で先へと続いた。

 水槽不要のペットとしての空魚の商品化。害虫駆除用の改良魚だ。ただしそれはマンボウではない。

「蟹」

 女性は作業を見守る風で、多分言葉を失っていた。

 正常だなと、観察する。そして僕は正常ではない。

「それも幸せなんだと思いますよ」

 どうぞと声がかかり、女性は骨壺をそっと収めた。

「マンボウは案外高い知能を持っているという説もあります」

 骨壺を置いて振り返った女性は、僕へと緩く首を傾げて。

「食べちゃいたいくらい可愛いと思われたのかもしれません」

 やはりわからないと、首を振って見せた。



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