20200308:デスボイス・アイドル
【第103回 二代目フリーワンライ企画】本日のお題
ハチミツをひとさじ
君にもらったもの
宗旨替え
宝島
腹式呼吸のデスボイス
<ジャンル>
現代・コメディ…?
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「高級ハチミツを欠かさないの」
希代の歌姫はカメラに向かって微笑んだ。
「ハチミツ、か」
三〇キログラムダンベルを交互に上げ下げしながら、清(きよ)の頬がわずかに上気したことに、俺は気づかないままでいたかった。
*
清は双眼鏡から目を上げた。指さす方には確かに小島が見えていた。
「あれが宝島さ」
「宝島言う人もおるが、まーひともおらん無人島やねぇ。最近兄ちゃんが一人住み着いたようだけんども」
清に筋肉と笑顔で頼まれて、快く船を出してくれた地元の漁師は、まいったまいったと呟きながら操舵する。
「その兄ちゃんもやばい感じでさぁ、おれはぁ。あんちゃん、なんなのこの人はぁ?」
小声で問われて俺は愛想笑いをただ返す。返す言葉なんて見つけられない。
一〇〇リットルリュックをやすやすを背負った清は、新幹線の駅を降りると漁港へと迷わず進んだ。僕は五〇リットルのリュックを慌てて背負って俺は追いつき、気づけば船の上にいた。
そもそも、テレビが余計な情報を垂れ流してからわずか半日。
清のリュックの中身はテントと食料のキャンプ準備で。俺はそれを見て自分の荷物を慌てて作った。
どこへ、問えば『宝島』だと答えただけ。場所を聞き出し、新幹線の座席を取るまでは苦労した――。
「んじゃ、三日後に来るでなぁ」
「よろしく頼むよ、大将!」
「頼むって態度かいな」
俺たち二人を桟橋において、俺にだけ聞こえる声で文句を言いつつ、人のいい漁師は帰って行く。
清は漁船を振り返ることもなく、島の中へと足を進めた。
*
男は、清を見るなり、持っていた道具を落とした。
「久しぶりだね、埴魔(はにま)!」
俺の知らない男だった。二人は旧知らしかった。清はいつもの満面の笑みだ。自慢の二の腕を頭上に翳してご機嫌に挨拶している。対する男は及び腰だ。
「なんだ、一人か。宗旨替えしたのかな」
清はあたりを見回している。奥にはコテージと呼べそうな小屋が一つ。周囲には小さな手入れされた菜園があり、道具小屋と思しきものが菜園を挟んで小屋の反対側にある。
確かに男――埴魔のほかに人の姿はなさそうだった。
兄ちゃんが一人住み着いた。そういえば漁師も言っていたか。
「き、清……。何しに、きた」
「ご挨拶だな。養蜂家に用があるといえばハチミツだろう」
清はやたらと厚い胸を張る。筋肉だけでFカップほどあるとか自慢していただろうか。ちなみに柔らかくはない。
「養蜂?」
埴魔は清の言葉を鼻で笑った。
「俺はもう養蜂からは足を洗ったんだ」
「ほぅ?」
清はずいと一歩足を踏み出した。埴魔は息をのみ一歩後ずさる。
「足を洗った、ねぇ」
ぶん、と清は腕を振った。いや。
ジジ、とわずかな音がした、ような気がする。
「ハニーマスター、埴魔星。お前が蜂から足を洗えるわけがない。そうだろう?」
埴魔は清を見上げている。清は埴魔の前で、握った手をゆっくり開いた。
ミツバチがぽとりと落ちた。ミツバチは、つぶれていた。
埴魔の膝は、崩れ落ちた。
*
「養蜂をやめたのは本当さ。ミツバチの集団死に遭ったんだ。俺はニホンミツバチしか使いたくなかった。だから」
「だから、宝島へ引きこもったというわけか」
埴魔は道すがらぽつりぽつりと理由を話した。
十ねん程前から世界で問題になっているミツバチの集団死。養蜂業界からの撤退。究極の蜜を作るという目標を断念する。しかし、あきらめきれない。
宝島は蟲の島。カブト、クワガタ、セミ、トンボ。子供たちに人気の希少種が集まる島だという。
そこには、ニホンミツバチがまだ健在だった。
「俺は天然物を、初めての天然物を口にした。驚いた。数多の花の蜜を選ぶことなく集め続けて雑な味がすると思っていた。けれどどうだ、どこまでも深いコク。喉を流れる清涼感。俺たち養蜂家が目指してもたどり着くことのかなわないハチミツがあった……」
そして埴魔は足を止めた。
ひときわ高く立派な気のその枝先に。
ミツバチの巣が作られていた。
「煙も届かん。あれを採ることができなら、ハチミツをお前にやろう」
「望むところだ!」
清はリュックをどさりと下した。
埴魔は一瞬疑問を顔に浮かべながら、ひきつった顔で二歩、下がった。
俺はその場にしゃがみ込む。両耳をきつく手で覆う。
「らぁぁぁっっっっあっ」
空気が吸われる音さえ聞こえた。続いて響くは、腹式呼吸のデスボイス。
空気を震わせ、人々を、地面を、木々を、枝葉を。枝に作られた巨大な巣を、巣の周りを飛び回る蜂を、巣の中に入ろうとする蜂を、休憩中の巣の中の蜂を。
十秒、二十秒、三十秒。ギネス記録に届くかと思われるほどの時間が過ぎ去り、清はようやく息を吸った。
静寂が戻る。いや、君の声に合わせていた神経は、すぐにはささやかな音を拾わない。
「ばかな……!」
ハニーマスターの呻きが零れる。彼の頭や地面についた手の上に、気絶したミツバチがぼとぼとと落ちていた。
「ハチミツをひとさじもらえるかな?」
清はにこやかに何事もなかったかのように微笑んだ。
埴魔は大きく息をついた。呆れか関心か、それは俺にはわからない。
「約束だ。持っていくがいい。いくらでも。これはお前が採ったものだ」
埴魔は立ち上がるとするすると木に登った。細い枝を器用に渡ると片手遣いの鋸を取り出す。
あっという間にミツバチの巣を収穫した。
「ほらよ」
投げてよこしたそれを仁群は確かに受け止める。満面の笑みで木を降りた埴魔の首根っこをも受け止めた。
「君にもらったものは忘れない。昔も」
「お前……」
「今も、だ」
片手で器用に巣を割った。ひとさじ分のハチミツを取り出し、拘束したままの埴魔の唇に塗りたくる。
「待て、俺は宗旨替えし……」
唇が、唇をふさいでいた。
ねっとりとまったりととっぷりと。清は埴魔の口をなめとる。
そりゃぁそうだな。俺は見ないでおいてやる。――そのほうが埴魔もいいだろう。
風が俺たちの間を吹き抜ける。風に乗って、荒い息遣いまで耳に届く。
――だったら俺を連れてこなくてもいいだろうに。
思わないでもなかったけれど。
スマートホンの振動に、それも無理かと笑みがこぼれた。――生命力は有り余るくせに生活力皆無の清の代わりに新幹線の切符を取ったのは俺なのだから。
遠くで汽笛が鳴っていた。阿呆鳥が頭上を行く。
どれ程が経った頃だろうか。
「おまたせ!」
響きのいいデスボイスに磨きをかけて、俺の『歌姫』になりたいと言い張る筋肉男は昔の男を捨てて言った。
「さぁ、オーディションを受けに帰ろうか!」
女性アイドル向けの俺の曲・俺の詩をデビューで歌うことが決まっている大手レコード会社の新人発掘オーディション。
無理じゃないかな。とは、心の中だけにしまっておく。
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