20200201:父を支えた赤い影
【第98回 二代目フリーワンライ企画】
<お題>
どうせなら雨がよかった
言葉は本質を伝えない
歳の数だけ
どこか遠くへ
肩車
<ジャンル>
現代(少しFT)
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冬の日の快晴の空を見上げて人々は、流石だとか人徳だとかと口々に褒めそやす。こんな場で悪口などは出ないものだが、途切れない記帳の列をいざ目の前にしてみると、喪主としてはなんともいえない気持ちになる。
九八の大往生は今更悲しむものではない。けれどこんなに惜しむ人たちが存在して。
私は大きく息を吐く。父は良くやった。それは確かだ。
「水を飲んでくるよ」
娘が頷くのを横目に、本堂脇の無理を言って用意して貰った控え室へと足を向ける。
扉を開けて重いカーテンの隙間を抜ける。目の前に用意していたミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。
「お疲れさん」
電気もついていない部屋は薄暗い。その中で浮いているような白い顔がこちらをじっと見つめている。
「お疲れさん」
にっと、笑んだ。
「全くです。なにせ人望しかないような人でしたからね。参列者が途切れません」
ボトルを呷る。少々冷たいが、冷えるほどは含まない。こんな時にこんな場所で私だって怒られたくはない。
「ぼちぼち時間じゃないのか」
「えぇ。だから、水分補給です」
「そうか」
白い顔が窓を向く。窓の向こう、分厚いカーテンを透かして参列者を眺めるように。
「どうせなら雨がよかったんですがね」
ゆっくり口の中で温めて、水を飲み込む。蓋を閉じる。
「雨なんて、面倒だろう」
「その方が、きっと父は喜びましたよ」
白い顔は動かない。
私は踵を返して、部屋を出た。
喪主としての私の挨拶原稿は、一般的に知られている父の功績に沿ったものを用意した。
生涯を現場で過ごした人だった。総合医として臨床に立ち続け、数多の患者の病気を『手遅れ』になる前に特定した。首を傾げる専門医を知ったし精密検査させたことも片手では足りないらしい。誇れる医者としての先輩であり、大きすぎる父だった。九八という年齢は、大往生と言えるものである。けれど、寿命が長くなりつつある今、もうあと少し元気でいて欲しかったと思う。
学会で登壇するときのように、若い研修医の前に立つ時のように、穏やかに微笑んで静かに語った。
それが、相反する気持ちを隠す事に、最も適切だったと思うから。
挨拶が終わる。出棺のために人々が動き出す。その中に、この中にいても浮かないけれど、決定的に何かが違う彼の姿を認めて。
快晴の昼間を前にして、最後の最後に立ち会えたのだと。
ほんの少し、胸のつかえが取れた気がした。
*
骨じゃあ、腹は膨れねぇな。
お前らは、オレの飯なんて喰わないだろう?
おしめ替えてやったって、肩車してやったって、お前らはオレの相方じゃぁない。
今日までの分のバイト代は貰うよ。オレだってコレだって一応労働だったんだぜ。
*
満月の日を彼は選んだ。妹二人は来られないとだけ連絡してきた。妻は見送りを拒否した。
母に先立たれ孫のような見た目の男と父が二人で暮らした古い家には、今、私と彼だけがいた。
彼は古めかしい革のトランクの蓋を閉じる。
「行くところは決めたのですが」
「どこか遠くへ、とは思ってる。いっそ里帰りしても面白そうだ」
彼はそれなりの財産を持っているはずだった。父の財産を主に継いだのは私と二人の妹達だが、遺言は彼への相続分についても触れられていた。
妻は不審に思ったようだが、兄妹三人は誰も反対しなかった。
「ここへ戻ってくることは」
「それはないな」
この家を継いだのは私だった。継いだと言っても、私の家は別にある。いずれは処分することも考えなくてはならなかった。使われることがないのであれば。
彼は白い顔でへらりと笑う。
「この辺の人たちみんな不味いんだよね。金をもらえても使い道がないし」
父の食事は全て彼が作っていた。食材を選ぶところから、時間や季節、体調に合わせて適切に調理するところまで。おおらかで仕事も大事にしていた母は、そんな彼をむしろ歓迎したとまで聞いた。――実を言えば、半世紀も遡るほど幼い私達もまた、彼の料理には数え切れないほど世話になっていた。
彼の得た賃金はその『材料費』に消えていたと聞いたことがあった。
「そう、ですか」
今の私には家庭がある。彼を家族として迎えるには、妻は『常識人』すぎた。
柱を撫でる。この家で過ごした思い出の中に、彼の白い顔がないことがなかった。残念と素直に思う。私事だけではなく、仕事の方でも。
「思い出ってのは歳の数だけ増えていくもんだ。オレみたいなはぐれ者より、人生を継いでいくてめぇの子供との思い出をたくさん作るんだな」
白い顔がふっと笑む。時折見せる、自嘲が混じったような淡い笑み。
踵を返す。上がりかまちに座り込み、靴紐を手に取る。
「まぁ、八〇年くらいか。世話になったよ。不味い血しかない国に流れ着いて飢えかけていたオレに喰わせてくれた。礼だと思った特技はなんだか受けた。オレもアイツも両得ってやつだった。アイツはオレに喰わせるために健康管理までさせてくれた。まぁ、お前らにとっては庭で野菜作るようなもんだがな」
靴紐を通していく。通して縛って、立ち上がる。
私を見上げる。
「餞別だ」
手招きされ、私は思わず小さく息を吐いた。差し出した指に鋭い爪が立てられる。血がにじむ。
わずかな痛みは幼い頃から馴染んだもので、今更騒ぐようなものではなかった。首だと大仰だろだとか、耳だと案外目立つんだよねとか、忘れるくらい遙か昔に聞いた気がする。
「疲れが溜ってるな。糖分の取り過ぎは良くない。肝臓も悲鳴を上げてる。神経痛も出てるだろ。病気ってより過労だな。少し休め。前立腺も気になるな。歳も歳だ。検査だけは続けておけ」
血液成分から状態を判定する。父が利用した彼の特技だった。
父は、彼好みの『血液』を供給するため、自分の身体を捧げた。畑に植えられた野菜のような者だった。
彼は父の血を彼自身の好みになるように食生活を受け持った。
そして、父の患者の病気の診断に一役……どころか、その役目を受け持った。
父の葬儀の参列者は皆、彼の診断で救われた人たちなのだ。
古い引き戸が音を立てる。月光が玄関にまで差し込んできて。
彼はトランクを持ち上げた。
たくさんの言葉が脳裏を過ぎり、音にならずに喉の奥へと落ちていった。
「……ありがとうございました」
残った言葉はありきたりで。ありきたり、以外の何物でもなくて。
言葉は本質を伝えない。もどかしくとも、それは真実に違いなかった。
「お元気で……!」
にじむ視界のその向こうで、月明かりに白い手が浮かびひらひら揺れた。
黒いコートの細い影は闇の中へと消えていった。
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