20200126:カムバック日常/ウェルカム現実
――タイムリミットまであと五分。
自堕落な生活を改めろ。言ったのは父さんだった。
初心者歓迎で、求人あるぜ。言ったのは兄さんだった。
住み込みバイトなんて大変じゃないかしら? お嬢様育ちの母さんは所詮世間知らずだ。
根性たたき直してきなさいよ。にやにや笑いの姉さんは絶対解っていたと確信している。
*
「坊主、走れ。死ぬ気で走れ。文字通り死ぬぞ!」
尻を叩かれ懸命に走る。掘り抜いた壁に手をつき、足下に岩に縋る。肩口でツルハシは踊り、腰の辺りでポーチが揺れる。
わかってますよ死にたくなんてありません!
言うつもりで口を開いて、喉からゼイゼイ音が漏れる。心臓は走り出してすぐに上限心拍数に張り付いて、身体から飛び出してしまわんばかりだ。
水が欲しい。僕は思う。思いながらも手を伸ばす。
水はある。頭の隅で思い出す。思い出しながら足を操る。
ポーチの中にまだ残りが。耳は微かに水音を聞いてはいたが。
「ほれ走れ、お前さんが走らねぇと後ろは全員おっ死んじまう!」
尻を叩かれ休みまもなく追い立てられる。
涙が浮かぶ。喉は渇くのに全身は水を欲しているのに、勝手に目尻を流れていく。
カムバック平穏な日常。ゲームとネットとアニメとドラマと、自堕落なニート生活よ、今すぐ戻ってきておくれ!
願っても思っても頭の中で叫んでも、現実は現実のまま変わることなく。
尻を叩かれ追い立てられ、爪立てすぎた指に感覚はなく、腕は上がらず、足は震え。
「死ぬ気で走れ!!」
人生街道方向音痴、ここに極まれり。
「死にたくなかったら、どこへだって構わねぇ!」
*
姉さんは始終笑っていた。
「初めての海外ね。パスポート取っておいてよかったわねぇ」
大学の卒業旅行と銘打った東南アジア一人旅を目前にしてインフルエンザに倒れた俺への嫌みかそれは。
母さんの心配は明後日だった。
「生水って危ないんでしょう? あなたお腹弱いんだから。心配だわ」
いつも明後日で、永遠の明後日だろう。明日にもならず今日にもならない。
携帯装備として、ツルハシを持ってくるように、という補足があって、生水ですかと僕は問いたい。
父さんはよく言えば豪放磊落。悪く言えば大雑把。
「お前もコレで一人前だな!」
なんの、で、どこの、で、何故そう思うで、裸一貫から企業を築いた男は違うと思い直し、育ちも筋肉も違う僕にそれ言うの、と世代間ギャップに絶望が残り。
兄さんは数字を追い続けた。
「日本円で月一〇〇万も夢じゃないとあるぞ」
生存バイアスって知ってますか、父さんの会社で重役やってる一流大学出のお兄様?
それでも僕は嫌とも言えずにツルハシを預け、わずかばかりの着替えを預け、日本人である証明(パスポート)だけを心のよすがに、成田空港の隅こっからタラップを登り機上の人となった。
*
ゼイゼイと肺は僕より先に悲鳴を上げる。空気は濃くて酸素は薄い。水蒸気は立ちこめ滴るばかりだ。酸欠防止の送風機はとうに止めてしまったという。曰く、僕が遅いから、止まるまでに間に合わなかった。
僕の尻を叩き続ける男は僕の指南役で。後ろに続くのは現地雇いのベテラン揃いだ。
こんなことは何度もあった。指南役は癖の強いスペイン語で余裕そうに笑っていたのに。
そりゃあこんな場所だからな。ベテランの一人は事もないとバケツに土を放り込んだ。
初心者歓迎は人手不足のその印。携帯装備指定なのは、現地調達が厳しいから。月給の話は本当だけれど、上は一〇〇万、下はゼロ。完全歩合とは書いてなかった。
機械が入れられば楽なんだがな。本当は技術者なんだけど。僕の次に若いはずの、不惑男はそう嘲う。
軟弱地盤で機械が入れず。従って人が掘るしかなく。
日本企業お抱えのダイヤモンド鉱山は、スペイン語が出来るだけしか能のない僕を違反契約で抱え込んだ。
ずいぶん細っこいのが来たなぁ! 指南役がそう笑って叩いた肩は脱臼し、その場で入れて貰って今もまだ動かす度に痛みが走った。
*
「ダイヤモンド、期待してるから」
とか。
「季節が逆なんでしょう?」
とか。
「漢らしくなって帰ってこい!」
とか。
「経験は全て書き留めておくといずれ役に立つぞ」
とか。
飛行機の中で何度も何度も思い返した。
「姉孝行と思って!」
とか。
「お母さんを心配させないでね」
とか。
「よし、帰ってきたら相撲だ!」
とか。
「ふむ。同人誌というものが良さそうだな」
とか。
指南役の笑顔を見ながら、何度も何度も思い返した。
僕だって、はらわたが煮えくりかえることぐらい、ないわけじゃない。
*
「死にたくなければ動け走れ!」
尻が叩かれ、僕は懸命に壁を掴む。
「死にたくないんだ動け走れ!」
追い立てられて、上がらない足を必死で動かす。
*
細っこい坊主だな! 初めて顔を合せた指南役は、ガハハと大声で笑った。
言葉がわかれば上等。筋肉なんてすぐにつくさ。ベテランの一人は己の胸を叩いて見せた。
みんな良い奴だから大丈夫だよ。技術者は 明るく笑っていた。
僕らワンチーム。キミを心から歓迎する。酒も料理も慣れないものではあったけれど。僕はたしかに、息をつけた。
*
多分爪が割れてしまった。もうゲームパットは叩けない。
これ以上のスリルはあろうか。行動の最深部、自動制御のダイナマイトはただいま絶賛カウントダウンを行っている。
等身の低い女の子が笑いかけるよりずっとリアルで、ホワイトカラーの職場なんて、紙切れのように薄っぺらく。
尻を叩かれ、手を動かし。罵倒されて、足を持ち上げ。心臓は跳ね肺は悲鳴し。
カムバック平穏な日常。現実味のない夢の世界。来世できっと待っていて。
伸ばした腕が、組んだ木組みを――。
「出口だ!!」
太陽は暖かかった。風は冷たく、暴力的な緑さえも優しく映る。
僕を押しのけ指南役が顔を出した。僕らを押しのけベテラン達が。こともなげに一仕事終えただけとでも言うように。
「夢みたいだ」
呟くと、そうか? と問いかけが返ってきた。
「よし殴れ。私が許す」
指南役がそうにっこりと笑うから。
力一杯殴った腕は、蚊ほどのダメージも与えることなく。
あぁ夢なんだなと僕は思う。
リアルで、辛くて、厳しくて、逃げたくて、ボロボロで、泥まみれで、どつかれて、乱暴で、苦しくて、痛くて、漢くさくて、温かくて。
生きてると実感する夢。
「突っ立ってないで、離れろ、ボケが!!」
音より先に、地面が鳴った。
――タイムリミットまであと、
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