20191215:飛躍の時

 パン、といい音が響き、竜治は後頭部をさすりながらおもむろに顔を上げた。薄目を開きしかめた顔で再び閉じる。噴水に月の光が反射して、窓越しに竜治の顔を刺していた。

 竜治は緩慢な動作で机の上で腕を組む。組んだ腕に枕代わりのクッションを乗せ、額を乗せる。大きな欠伸が一つ漏れ。

「寝るな!」

 スパン! と再びいい音が響いた。

 竜治は再び目を開ける。肩越しに背後を振り返る。薄黒い影を見つけ、目を眇めて言い放つ。

「ほっとけ。俺は眠い」

 スッパーン!

「えぇっ!?」

「い……たくはないけどなんだその音は!」

 音を立てた張本人すら驚く音が響き渡った。竜治は今度こそ、身を起こし、後頭部へ手をまわし、椅子ごと背後へと振り返る。背後をにらむ。

「ほっとけと言っている! ここは研究室で、今は夜中で、俺は暗中模索もいいところで、頭の動きもすこぶる悪い。休息をとって何が悪い!」

「暗中飛躍。しようぜ」

 竜治がにらみつける影は、ひるんだ様子もなく竜治を見下ろしてきていた。

 中背、やせ型、声に違和感のない男。特徴のない顔の中で、目だけがらんらんと輝いている。

「だからすでに模索中だと、」

「ちげーよ。暗中飛躍。暗いからこそ飛べるんだ」

「虎和」

 竜治は声に男の顔をまじまじと見た。まじまじと見て、視線を逸らしまた合わせた。

「とらかず」

 今度は一音一音、確かめるように竜治は言う。男を、虎一をじっと見つめる。

「あぁ」

 短く肯定した虎和は、竜治が口を開く前に、竜の不健康に細い腕をがっちり掴んだ。

「グズはだめだ。母さんに言われただろう。行くぞ」

「どこかへ行くなら、上着をに」

「要らん!」

 虎和が手を引く。竜治は引かれるままに立ち上がる。どこへ。竜治が問いかける前に虎和は窓枠へと手をかける。そして。

「飛躍ってのはこういうことだ!」

 虎和は桟を蹴る。引かれたままの竜治は、引かれるままに桟を蹴る。落ちる。手足を思わずばたつかせた竜治へ虎和は軽やかな声を立てた。

「飛躍だよ、飛躍! 物理法則、意識の規制、身についた常識、期待される人物像。全部飛び越してしまえばいい!」

 虎和は空を示す。大きな月が目いっぱいに太陽の光を反射している。

「月の光は太陽光の反射だが、月表面でのわずかな吸収を起こした後で地球にまで光を嘆ける。そうとは知らない昔の人々は、わずかな『色』の違いから月に魔力を想像した」

 虎和は蹴る。蹴ったところには何もない。あるのは空気と、揺れ動く虎和の影。

 竜治は虎和の足元を見て、顔を見る。虎和はわずかに振り返り、頷いて見せた。

「条件が良ければ、そんな月光でも虹が生まれる。夜の虹さ」

 顎で促され竜治が見上げた先で、虹がぼんやりと生まれ始めた。

 虹は架け橋。あの世とこの世を繋ぐ架け橋。

 虹の架け橋。渡ったその時、きっと歴史的な一日は最後の調整を終えるのだ。

「暗い中では足元もおぼつかない、だから堅実にじっくりと足元を確かめたくなる。けれど、空を見ればどうだ。飛躍でもしなけりゃ届かない」

「虹は光の分解だ。プリズムを通った光は波長ごとに曲がる角度がわずかに違う。近いも遠くもなく、光の角度とプリズムがどこがあるかどうかで決まる」

 竜治は思ったつもりだった。自分の声で、自分が声に出したことに初めて気づいた。

 気づいて、思わず下唇をわずかに噛んだ。

 ハハハ! 虎和は軽快に笑い飛ばした。

「飛躍だって言っただろう? お前はいつも硬すぎる。夜の虹は昼間の虹とは性質が異なる。スペクトルが違う。太陽光とは性質が異なる。だからこう、掴むことも架け橋を渡ることもきっと、できる」

 虎和は竜治をつかんでいない手で遥か前方へと手を伸ばす。

 それを目で追った竜治は、ふと、気づいた。

「虹が……!」

「針で糸を通すような可能性を考える。たどっていく。物理法則も常識も超えて仮説を立てる。検証する」

 竜治は強く引かれたかと思えば、硬い足場の上にいた。

 足を鳴らす。文字通りの虹色の床が硬い感触を竜治に伝える。竜治は目を見開いた。二度、三度、足をならす。

 虹の上に、立っている。

「これが飛躍だ。たまには、ここまで飛躍してこい」

 竜治と並んだ虎和はふと迷うような視線へ変えた。胸元から布切れを出す。

 竜治は目元の熱さと、頬を滑りゆく感触に気づいた。

「泣いてんじゃねーよ」

 虎和は微笑う。

 竜治はもう一を目を瞬いた。何事かを紡ごうと口を開き、


 スッパーン!

「えぇっ!?」

「い……たくはないけどなんだその音は!」

 音を立てた張本人すら驚く音が響き渡った。竜治は、身を起こし、後頭部へ手をまわし、椅子ごと背後へと振り返る。背後をにらむ。

 研究室の同僚が段ボール製のハリセンを片手に目を丸くしている。

「これ、思った以上に音出るのな」

「……痛くはないな」

「そらぁ僥倖」

 竜治は大きく欠伸を漏らす。口を閉じる前に手の中のもので、浮かび上がった涙を拭いた。

 千人針よろしく、糸がびっしりと縫い込まれているハンカチほどの布だった。

「こんなのもらったっけ?」

「どした?」

「あ、いや」

 竜治は首をかしげる。かしげてもそこには確かにそれがある。

 竜治はふと、外を見る。朝の光が暴力的に横からの光を投げかける中で、飛躍した感触ばかりを思い出す。

「おら、とっとと動け。時間がないぞ。配合を総当たりで試してみるんだろうが」

 同僚が動き始める。竜治は。

「なぁ、」

 飛躍。

 飛躍。

 竜治は思う。

 未来もなくならばと飛んで落ちた兄が成長したら、どうなっているか、どうしているか。

 飛躍。

「成果これだけ出ないなら、いっそ……」

 飛び出せと、声がする。


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