20191208:『先』のその先
【第91回 二代目フリーワンライ企画】
<お題>
田舎の喫茶店
笑えぬ冗談
いつもとは違う反応
走りまわる
ご注意ください
<タイトル>
『先』のその先
<ジャンル>
オリジナル。あるかもしれない現実。
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破けかけたメニューの一番上を店員に示して見せた。
「コーヒーを」
店員は頷きカウンターへと戻っていく。母国語とネリシュ語での『コーヒー』を交互に呟きながら。
こんなメニューを引き寄せまじまじとその表記を見る。こんな田舎の喫茶店でも、メニューには母国語と合せてネリシュ語の文字が印刷されている。
顔を上げて窓の外へと目を向ける。通り沿いの看板には、ストリートの名称があり、車線と行く先の表示があり、その全てにネリシュ語の表記が当然のように並んでいた。
「ネリシュ語ではなく? わざわざセニージャ語を」
都会の大学へ進学し、ネリシュ語を学びセニージャ語にも精通した後、立場を違えて戻ってきた幼なじみは、カウンターを窺った目を私に戻して聞き返してきた。汚れのないスーツと指紋もついていない眼鏡と、さりげなく宝石が填められた時計が全身で私を拒絶しているかのようだった。もう俺は、かつての俺ではないのだから。
「そんなこと言って、アナタはセニージャ語も堪能なのでしょう?」
「どうにかやっとこカタコトで仕事ができる程度だ。日常会話は無理さ」
カランと、扉が軽やかな音を立てる。旅行者らしい外国人がバックパックを背負ったままで、店の中を見回している。さほど高くもない背格好、黄色がかった肌の色、黒髪、黒目。けれど目の形に何か違和感がある。
ネリシュの人だと直感する。ネリシュの、旅行者だ。
『お一人ですか』
たどたどしいけれどネリシュの言葉で店員は客へと話しかけた。
「あの子をこの町から出してやりたいの」
客は流暢にネリシュの言葉で返している。店員は客をまっすぐに見て頷き、客を席へと案内していく。『連れが来る。あと二人だ』『では、三人。こちらへ、どうぞ』
「それならなおさら、ネリシュ語が良いんじゃないか」
幼なじみも会話にわずかに振り返りつつ、当たり前のように返す。
この町にはネリシュ人の観光客が多い。歴史的にネリシュと近しく、ネリシュと直行便が結ばれているのも要因の一つだ。観光だけでなく、ビジネス的な繋がりも強い。国境を越えて、あまたの業種であまたの会社でネリシュから発注を受けていた。
ネリシュの言葉を学ぶことは、仕事が増えることを意味する。――それくらい、この街に生きる者なら誰だって知っていることだ。
コーヒーが運ばれてくる。私の分、幼なじみの分。ネリシュの言葉をかけられて、ソーサーを置くなり、店員は彼らの元へと去って行く。
「むしろ、ネリシュ語の方が」
ネリシュ人は大事なお客様だ。お金を払ってくれるお客様だ。時には知識・技術を教えてくれる先生であり、成り上がった先輩でもある。それは確かだ。
しかし、後輩が先輩を超えられないと誰が決めた?
「私が学ぶならネリシュ語ね。けど、娘が成人する頃はどうなっているかしら」
「笑えぬ冗談だな。彼らは私達のパートナーさ。そのために、良い関係でいるように、私は日々苦心しているんだ」
幼なじみはコーヒーを啜る。セニージャでは嫌がられるらしい音を立てる飲み方で。そして私は、不味そうだとぼんやり思う。学生時代から変わらない。
コーヒーなる飲み物がこの街にもたらされたのはほんの二〇年ほど前のことだった。物珍しさとセニージャへの憧れがない交ぜになった学生時代の私達は、毎日のようにセ式喫茶店へと通い詰めた。
苦さに顔をしかめ何を思ったか走りまわる者、周囲のいつもとは違う反応を楽しむために敢えて平気な振りを楽しむ者、早々に美味しいと言い出して好んで呑んでいた者もいた。そして一生懸命、言葉を覚えた。
押し寄せるネリシュ人に圧倒され、仕事という現実を突きつけられ、生活のために覚える者が急増した。
それも全て判っている。判っていて、だ。
扉が軽やかな音を立てる。ネリシュの人の『連れ』が着いたようだ。『連れ』はネリシュ語で店員に話しかけ、店員は懸命にそれに答えた。
「彼らの『先』はいつまで有効なのかしら」
ネリシュ人は決して現地の言葉を使わない。コーヒーの発音も、水も、ケーキも。
「先?」
幼なじみの目が訝しげに私を見やる。私は、近頃すっかり飲み慣れてしまったコーヒーを手に取った。
「彼らに『先』はあるの? 私達は彼らを兄として学び続けている。言葉も技術も。彼らを歓待し、彼らの機嫌をとり、彼らから仕事を貰い、学び続けている」
「だから、私達はネリシュの言葉を」
「抜いたら。どうなるかしら」
「抜いた?」
「そう。ネリシュの持つ技術を全て習得して、彼らから発注を受ける必要がなくなったら、どうなるかしら」
ケーキがネリシュの人々の元へと運ばれていく。『ご注意ください』と店員がケーキの説明をしている。ご注意……赤く見えるケーキのフルーツは、この街伝統の『唐辛子』、だと。
「それは……」
幼なじみは難しい顔で黙り込む。遠く昼休みの終了を告げるチャイムが響く。
私はレシートを掴んで立ち上がる。
「娘には、セニージャ語を学ばせたいの」
幼なじみは苦り切った顔で、けれど確かに、うなずいた。
「わかった。調べておこう」
*
幼なじみと別れて歩く。職場へ戻ろうと足を向ける。
雑多な道、雑多な通り、その先に数多立ち並ぶ高層ビル群。
勤勉な学生が辞書を片手に通り過ぎ、タクシーも店もバスも複数言語を並記する。
中学生のおしゃべりはネリシュのアニメーションの話題でもちきりで。
証券取引所の巨大なショーウィンドウの内側では、ネリシュの株の下落のニュースが勿体つけて流れていった。
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