狂人へ


「刺し殺してもいいですか?」

「いいですよ」

すかさずわたしはそう答えるだろう

だから練習をするのだ

「刺し殺してもいいですか?」

狂人がわたしに話し掛けて来る

「いいですよ」

ばっちりだ

間髪入れずにそのやり取りを行なう必要がある

「刺し殺してもいいですか?」「いいですよ」

的確に迅速に

繁華街へと歩き出した

人混みの中でわたしの元へ精神異常者が近付いて来る気配を感じた

だがそれはショーウインドウに反射する自分自身の姿だった

用意していた言葉を口の中で繰り返す

「刺し殺してもいいですか?」「いいですよ」

まだ機会はある

そう思った

この世界は皆が思っているほど平和でぬくぬくとしたもので満ち溢れているわけではない

案の定、その日、二度目の精神異常者の到来を感じた

(今度こそ失敗しないぞ………)

わたしは練習していた言葉を再度、繰り返した

瞳は目の前の景色だけでなくその奥に秘められている分子の蠢きの理由までをも解読しようとしていた

「刺し殺………いい…刺し殺し……」

口の中でもごもごと繰り返した

わたしと精神異常者との接触を遮るかのよう陽気に背後から声を掛けられた

そいつは微笑んでいた

「何をしているんですか?」

わたしは一瞥し再び精神異常者を見た

自分が無視されたことがよっぽど気に食わなかったのだろうかきつく表情を変え言ってきた

「おいその包丁は何に使うんだ?」

包丁?

「そんなものは知らない、もしわたしが包丁を持っているならそれで刻むものがまだこの世の中にあるということだろう」

「何だと?」

「………平和のために使っていると言っているんだ、お前は黙ってろ」

「ちょっとこい」

わたしはぐいと腕を掴まれた

多分、紫に変色するのだろうと思われた

精神異常者は何処かへと消えてしまっていた

またこの世界がほんの少し破滅へと近付くだけだ

わたしは包丁を没収され近くの交番へと連行された

道に迷うこともなかった

「星がきれいだな」

隣りの警察官は唐突に言った

まだ昼間だった

わたしはその時、初めてこの警察官に興味を抱いた

わたしを見ずにさらに続けた

「星がきれいだ、今この瞬間だって星は輝いているんだろう………消滅したわけではない、ただそれを見ることが出来ないだけなんだ」

わたしは言った

「でも、目を凝らしてもよく見えない」

警察官は頷いた

「しかしそれはわたしたちの瞳がまだ未熟だからだとは思わないか?」

わたしは黙り込んだ

「職業は?」

わたしは真剣に答えようとした

この人に嫌われたくないと思った

でもどうしても自分の職業が思い出せなかった

「………うゔ」

わたしは驚くことに泣いていた

わたしは何かを間違えたそんな気持ちでいっぱいだった

そのあと一番、最初に思ったことは

(もし明日になってもまだこんな状態が続いていたとしたら?)

その時は狂人になるしかないな、と思った


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