5話 後朝(きぬぎぬ)

「いけない。寝ちゃった。」

 その口ぶりはあまりにも慌てていて、恐らくタカが初めて聞いたエイの素の言葉だった。

「寝ちゃいけなかった?」

「昨夜中にやらなければいけないことがあった。しばらく一人にして。」

 言い捨てると半裸のまま慌ただしく奥に消えていった。

 その姿もまた中々に悩ましくて、こちらもつい朝から悩ましくなる。


 冬の長い夜はまだ明けきっていなかった。

 一人残されたタカはもやついた気分を払うために寝乱れた褥から広々としたリビングに出てみる。

 三方向が天井までのピクチャーウィンドウからは夕べは見えなかったワンガンの彼方に煌めく海の姿をのぞかせていた。

 水平線から太陽が昇ってくる気配。

 日の出、だ。

 曙光が水平線から放つ直線、太陽はまだその下にあるのに、光はどんどんエレガントに力強くなる。

 ミッドナイトブルーからドーンパープル。

 濃い闇から、紫立つ曙へ。

 いくら眺めても飽きることのない変幻。


「空の面積が広いな・・・。」

 誰に言うともなく呟いていると後ろに彼女の気配を感じた。

 残念ながらもうぴっちりと完全に隙も無く服を身に着けていた。

「何もかもが焼き払われたから何もない土地と、海と、空。

 たしかに、広がっている。でも、そんなに広い世界ではない。ワンガンは狭い。どんどん狭くなる。」

「・・・俺が育ったところは深い山の中でさ、お日様が山の向こうに落ちたら、あっという間にすとん、って暗くなる。朝日もそう。あれ?って、思うといつの間にか唐突に明るいんだ。それが、朝、なんだよ。

 もうさ、毎日の暮らしが、そんな感じでさ。」

「突然?ってどういう感じかわからないな。」

「わかんないでしょ。それは、わかる。だってこんなにゴージャスに朝焼けだの夕焼けだの毎日見ているんでしょ。わかるよ、絶対わからないのがさ。

 空を見ようと思ったらさ、木の上の高いところまで登らなきゃいけない。だから俺は山猿みたいに暮していたんだ。」

「山猿?何を言っているのかわからないのだが。お前、ヘンだ。」

「うん。変だ。だけどさ。」

「だけど?」

「俺の育ったところはもっとヘンでさ。

 『渚』っていうの。地名が。

 すっごい山の中で、海はおろか湖もないのにさ。あるのは深い森を切りこんだ細くて険しい川だけ。

 それなのに『渚』、ヘンでしょ?

 もちろん、砂浜なんてないよ。」

「山奥の渚、か。面白いな。」

「そう。でもさ、なんかわかるような気がするんだ。」

「なにを?」

「あの土地に『渚』って名前を付けてしまった昔の人の気持ち。」

「・・・憧れ?」

「そう。それだ。絶対そう。

 見たことのない海への憧れ。見たことのないものを一生懸命想像してもしかしてこんなふうだろうって、つけた名前。なんか熱いよね。

 ・・・俺、ここが気に入ったな。

 ワンガンが好きだ。

 夕日と朝日が見られる街だ。」

「・・・ここは、ここでしか生きられない人が住む街だ。

 ここで生まれたものも増えたが、まだ心を故郷に置いてきたままの人間も多い。

 ・・・お前みたいなこと言う人間はいない。」

「・・・君はどうなの?」

「さあ、な。」


「そういえば、名前、聞いていなかった。」

「俺は、タカ、ミッドランドのタカ。」

 

 エイの瞳孔が少しだけ大きく広がったのをタカは見て取った。







 二人の沈黙にかすかな風切音が入り込んできた。

 エレベーターシャフトか?とタカがひそかに警戒モードにいつでも移行できるように構えるとまもなく開け放しのドアから俊敏な身のこなしで一人の青年が着地するのが見えた。


「アカリ、おはよう。」


 アカリ、という名前なんだ。


 ああ、こいつはこの娘の本当の名前を知っている人間なのだ、と悟るとタカは柄にもなく不意に胸のうちがざわつくのを感じた。

「ノル、おはよう。」

「お前が困っているのではと思って来てみたが・・・。

 自分で何とかしたようだな。」

「何とかできた。

 ・・・もう、大丈夫。」

「もう大丈夫、なのか。

 ・・・そうか。なら、いい。俺は行く。」

「そちらはどう? 無事に上陸は済んだ?」

「ああ、何事もなく終わった。」

「本当に?IDは?インプリは?」

「湾の向こうでやる。

 ・・・お前の言う通り、ワンガンに危険は持ちこまない、それは皆同じに思っている。」

「そう・・。

 でも、湾向こうのIDは最近狩りの標的になっている。大丈夫なの?」

「・・・湾向こうの三世代目準国民のミズラヒムが立ち上げた新しいラボを使う。そこはまだ監視対象になっていないという話だ。」

「準国民が?本当に?なんでそんな危ないことを?」

「ミズラヒムにもいろいろ思惑があるようだ。お前はあまり知らなくていい。」

 ノルと呼ばれた青年は浅黒い精悍な顔にどうにか無理やり浮かべた硬い笑みでタカを見やると

「気まずい思いをさせたようだな。申し訳ない。」という言葉を残し、しなやかに身を翻してあっという間にエレベーターシャフトに消えていった。

 つまり、こういうわけだ。

 昨夜ここにいるべきだったのはあの男で、それがどうしても無理になってしまう事情があってアカリはそこらで見つけた自分を連れてきた、と。


 でも、なんでさ?

 二人の様子を見ていると男女としても人間としても修復不可能な亀裂があるという風にも見えないし、そもそもたかだか一晩いないだけで見ず知らずの男を引き入れることもないだろう。

 あの男はアカリが困っているかと思って来てみた、と言っていたが彼女には一晩でも男を欠かすと死んでしまう病気でもあるっていうのか?


 それはそれでまたすごい情報だ。

 サンプルを持って帰ったら大騒ぎになる。

 いや、そんなもん、ないだろう。エロ漫画じゃあるまいし。

 

 彼が現れてから消えるまで一分もなかったが、タカには十分すぎる印象と大きな疑問とそして、どうにも取り扱いしにくい重たいモノを胸の上に置いていってしばらくの間それは消えそうにもなかった。

 そう、最後のやつがなんとも重い。なんだこれ。

 いや、これはまったく柄にもなく、だ。

 まったく困ったもんだ、とタカはひとりごちた。



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