第134話 僕が嘘をついてるって言うんですか!

 八月二十二日、先生に退学の報告をした夜のことだった。

 娘は部屋で眠っており、父と二人で部屋の荷物を車に運んだ。エレベーターで衣類ケースなどを三階から降ろし、一階では事務所で借りた台車で玄関まで運んだ。それを、父が順に車に積んでいく。


 何度も往復する途中で、事務所に寄り、翌日の清算をお願いした。

 ここでは、最初に全日程分を預かり金として、渡しておく。自分たちのお小遣い分も含まれ、食費以外の生活費が無くなったら、事務所で受け取ることになっていた。

 手持ちのお金の紛失でトラブルが起きないようになっているのだろう。

 この宿舎では、父と私の傘がなくなった。

 父は、この町で買った新品が玄関の傘立てから消えた。父には「お布施したね」と笑ったが、次は名前が書いてあった私の古い傘もなくなった。

 全国からいろんな人間が出入りする。金銭のトラブルもありうるだろう。

 ここの駅のコンビニで、二十代のOLがパンを万引きする姿が忘れられない。娘とパンを買いに入った時、奥のパンコーナーで、周りを気にしていた女性が、カバンに手を入れた。ガサッという音とともに、カバンから一瞬だけパンの袋が見えた気がした。

 確証はない。あんな普通の女性が万引きすることに驚いただけだ。


 清算のため、帰郷していた日を報告している途中、暗いロビーから父の大声が聞こえて来た。

 オレンジ色の非常灯がともる休憩コーナーからだ。

 説明を続けていたが、どうにも気になって父がいる場所に向かった。


 ソファーには、世話係の西山が座っていた。

 父が目の前に立って、大声を出している。

「あんたが、『もう我慢できん』って言ったから、中尾が孫を連れ出して、お漏らしさせることになったんやろう!」

「いいえ、私は知りません」

「四歳の子が一緒に来てるんやから、楽器や踊りの練習が無理なのが、分からんのか!」

 西山は黙り込む。

「四歳の子供が食堂で立って歩くことを、大人のあんたが我慢できんって、どういうことや!」

 西山はまた黙り込む。

「あんたが言ったから、中尾がお漏らしをさせたんや!」

「いいえ、私はそんなことを言ってません…」

 その瞬間、自分もふいに大声が出た。

「僕が嘘をついているって言うんですか!

 あなたが、あの時、食堂で娘が立って歩くのを見て、私の目の前で、『もう我慢できん』って言ったから、中尾が怒って、娘を食堂から連れ出して、お漏らしをさせたんです!!」

 西山は茫然と見つめるだけで、私に反論もしない。

「こんな奴に言うても仕方ない。荷物を片付けよう」

 さっさと玄関へ向けて歩き出した。

「あんたの考えは、教祖さんと違ってるんや! 間違っとる! 教祖さんの教えに背いとる!」

 父の声が、うしろで響いていた。


 父のあとを追って、事務所の野村主任が来た。

 謝罪か言い訳か、ここで起きたことを詫びているようだった。

 玄関で野村主任と向き合った私は、また大声を出した。

「娘のことも考えてくださいよ!

 まだ四歳なんです。一緒に踊りや楽器はできないし、黙ってじっとしていることなんてできるわけないじゃないですか。

 それを中尾さんは、お漏らしさせたんです!

 今日、ここへ戻るのを嫌がっていたんです。『もうギャクタイされない?』って、私に聞いていました。

 四歳の子がここでの虐待を話すんですよ。それでいいんですか。

 それでも宗教家ですか」

 帰郷を引き留めようとする野村主任に、一言「明日、帰ります」と告げて、車に荷物を運んだ。


 翌朝、清算金を渡す若い男性職員の手が震えていた。

 札と小銭が小刻みに揺れる。前日の怒りが収まらないため、金の受け取りにくさにさえ、苛立ちを感じた。

 三人で校舎へ向かう。二人を駐車場に待たせ、一人で教室に入った。

 クラスメートにお別れの挨拶をした。

 パン!パン!パン!パン!

 これで、おしまい。いや、まだ大きな問題が残っている。


「神代さん、大きな声を出して」

 先生の言葉を思い出す。

 授業で先生から聞いた話も思い出した。

「神さんから言わされた言葉は、言った本人は憶えていないけど、言われたほうは、その言葉が心に届いて、忘れられないものになるようです」

 先生は笑って言った。

「あとで、『先生、あの時こんなことを言われて、私それが忘れられなくて』って言われても、こちらは全然記憶がなくって。不思議なもんです」


 この経験が、のちに私が娘との面会を確保するための唯一の助けとなった。弁護士は、横で黙って座っていただけだ。


 声を出さなくてはいけない。

 怒るべき相手には、怒らなくてはいけない。

 変えなければいけない制度は、変えなくてはいけない。


 問答無用の連れ去りも、DVの捏造も、この国の異常事態を放置してはいけない。

 間違った行いは、次の世代に連鎖するだろう。連れ去り親の行動が目に見えない傷となって心の中に潜み、いつか我が子に問題行動として現れる。


 中立でも公平でもない家庭裁判所を放置してはいけない。

 事実を無視した裁判に何の意味もない。調査官の嘘を黙って見過ごす弁護士に、存在価値はない。

 子供にとって大事な監護権の審判をたった三か月で終わらせた家裁の裁判官は、高裁へ栄転した。拙速な裁判のコストパフォーマンスが評価されたのだろうか。


 今後も、連れ去りやDV捏造は発生し続けるだろう。突然、子を奪われ、我が子に会うことさえできない親が、この日本に存在する。

 これが、この国の本当の姿だ。

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