第113話 神様の町の宿泊所は地獄だった

 平成二十六年六月三十日、手帳のメモ。

「食堂で泣く」

 初めて、ここで娘が泣いた日。娘が泣かされた日だ。


 入学までは、お客さん扱いだった。

 学生になった途端、掃除や食事の準備が割り当てられる。四歳の幼児連れであることには、一切配慮されなかった。

 私たちに無理しないように言った世話係の先生は、七月いっぱいで修了生とともに三か月の任期を終えて去ってしまう。

 あとは、さらなる地獄だった。

 この町に来て二週間、食事のたびに、一応、私も自分の皿洗いをした。入学後は、全員の食器を洗うことになる。

 六月三十日までは、娘も食堂の中に入って、私と一緒に自分の皿を洗った。

「お手伝いするの」

 父親の手伝いを、周りの学生や先生に自慢していた。

 それが、突然ルールが変わった。

「ここへ入らないでくれる?」

 食堂のおばさんが、厳しく娘を注意した。

 急に、しかも事前の通告もなく、関係者以外立ち入り禁止になったのだ。

 娘は泣いて走り出した。

 私も追いかけて、走った。

 部屋に戻った娘は、私のひざで泣いた。

 私と娘は、この宿泊所での厳しい扱いに泣かされ、強くなっていった。


 娘より年下のハーフの女の子がいた。

 名前は、ソラちゃん。あだ名は、そらちーたん。二歳ぐらいだろうか。

 この子は、この施設で働く親と一時的にここに住んでいた。

 我が家のように暮らす彼女は、勝手に食堂の洗い場に出入りし、食堂ではなく、洗い場で手を洗った。

 そのたびに、太った食堂のおばはんが偉そうに注意した。

 いかつい風貌と異なり、幼児に自分の権威を振り回す心の弱い人間だった。事務所主任への陰口と告げ口も得意だった。

 その後、ソラちゃんと仲良くなった四歳の娘は、二歳の女の子を守るために戦った。

「そらちーたんは悪くない! お手てを洗っただけ!」

 デブゴンにそう言い放つと、ソラちゃんの手を引いて食堂をあとにした。


 食堂で初めて娘が泣かされた日、父も宿泊所に来ていたため、父と二人で世話係の先生に抗議に行った。

 世話係の中尾は、大阪の人間だった。丸刈り頭で、ガチャ目、前歯が片方なかった。宿泊所では、世話係の担当は「先生」と呼ばれる。

 最初に宿泊所面接で会った時、自分の教会で里親をした経験がある中尾は、さもDVや虐待に理解があるような口ぶりで、私たち親子の身の上に同情した。

 それさえも一瞬で化けの皮がはがれ、これ以後は私たちに仕事を強制するだけの存在になる。

「入学以降は、宿泊客ではないので、ルールに従ってもらわないと」

 冷たくあしらう中尾に、父は注意した。

「それなら、最初から言っておいてもらわないと困る。

 孫はまだ四歳で、このあいだまで父親の手伝いをして、皿を洗っていたのが、今日になって急に入るなと言われても戸惑うだけです。」

「わかりました。気をつけます。」

 この日、中尾の言葉を聞きながら、

「ここでは奇跡は起こらないから、現実的に対応してください。」

 そう言われた気がした。

 開教から時間が経って、教会の子として育った人間に宗教心はなかった。中尾にとって宗教は生業で、もはや奇跡を信じていないのだろう。

 私には、すでに奇跡があった。

 気持ちは大きく変化していた。あとは成り行きを見守り、成り行きに合わせて行動することを覚悟していた。

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