第61話 妻の陳述書
平成二十四年十二月十二日付の妻の陳述書。
一見して嘘ばかりで、文章は稚拙。娘が大事と言いながら、妻が陳述書を書いたのは、たった一回だけだった。
その中の一文。
「特に自慢できるというわけではないのですが、料理は得意な方だと思いますし、特にお菓子作りは習っていたこともあって自信があります。」
私には本人も「不器用だから」と言っていたが、段取りよく料理するのが難しかったんだろうと思う。新婚生活半年ぐらいで、朝は食卓に菓子パンが並ぶようになった。
小倉マーガリンとジャムマーガリンが並んでいて、何も考えずに、ジャムマーガリンをかじったら、「そっちが食べたかったのに」と不機嫌そうに言われた時は、毎朝の食卓の菓子パンさえも悲しいのに、どっちが食べたかったということで文句言われるのは、死ぬほど悲しかった。
結婚当初はものすごく手間取っていた味噌汁も、すぐにインスタントが用意された。お湯を入れるだけだから、自分で入れて、かき混ぜた。夕食は、スーパーのお惣菜が、皿に移し替えられることもなく、パックのまま。
これが、私の新婚生活の実態。
うちの親が娘の保育園のお迎えに来ているため、親に気づかれないように、私が仕事帰りに、お好み焼きを買って帰ったことがある。食事の準備が大変だと妻のために。娘の横で、お好み焼きを食べさせる私の気持ち、彼女には想像つかないだろう。
「朝、娘を保育園に送るときは私が送っていきました。お迎えも私がやろうとしたのですが、姑がやってきて、お迎えに行ってしまい、行かせてもらえませんでした。」
自分に都合の悪いことは書いていない。食事の世話から歯磨き、着替えまで、保育園に行くための準備をしていたのは、すべて私だった。
彼女の仕事が終わるのが五時過ぎで、「六時近くまで一歳の娘を保育園に残しておくのはかわいそう」という私の親の思いで、片道一時間近くかけて迎えにきていたのだが、そういう思いを彼女に理解してもらうのは、かなり困難、というか不可能に近い。
「歯磨きは、朝夕の食後にちゃんとさせていましたし、お風呂も毎日入れていました。洋服も私が選んであげていました。」
すごい巧妙な文章で、主語がない。確かに、服を出していたのは彼女で、着せていたのは私。彼女は歯磨きを私にさせていたし、お風呂に入れていたのも私。
八月に両親に謝りたいと言ってきた日のこと。陳述書では、元妻が娘と遊んでいるところへ、「舅が、突然私のことを叱りつけてきた」のだそうだ。
娘と会った妻が、急に私に「お義父さんとお義母さんに謝りたい」と言い出し、うちの父は「会いたくない」の一点張りで、最後に私が親に怒って、無理に会わせて、元妻が謝ったというのが真実だが、事実がドンドン捻じ曲げられていく。
「夫婦とは本来関係のない舅らに迷惑かけていると感じて、一言謝ろうとしたところ、『あやまりにきたんじゃないだろう!』などと言って怒鳴ったのです。」
この時の謝罪の様子を見て、昔、保健所に勤務して精神疾患の人を見ていた父は、妻が帰ったあとで、「話をしながら、ずっと目を合わせないようにしてたやろ。嘘ついてるよ」と私に言ったが、確かに嘘だった。
「相手方は、私と娘との接触を完全に遮断しようとしていたため、法務局へ相談したところ、法務局から相手へ促してもらい、会えることになったのです。」
家に戻りたいという話はどこかに消えている。私は法務局の人と話したこともないし、彼女自身が法務局の相談を取り下げたのに。
「家を建てるのはもっぱら相手方の意向であり、私はそれほど意識していませんでした。結婚と同時に住宅ローンを負担するのはそれなりに思いましたが、当時は双方会社員で共働きでしたし、何とか返済していけると考えていました。」
家を建てるのに、結婚前、彼女とキッチンやお風呂などを見て回ったことを今でも覚えている。生活費も住宅ローンも、すべて私の負担だったから、共働きは関係ないし、「何とか返済していける」という心配も彼女には無縁のものだ。
「相手方が仕事をやめた当時、娘は六か月になったばかりで、まったく目の離せない時期でしたし、子育ても楽しいことばかりではなくストレスの溜まることもあった時期でした。それに加えて収入がないという状況に、毎日不安で焦りを感じていました。そんな私の心情を知ってか知らずか、相手方は、相手方は、相変わらず仕事もしないで家に居続ける状況でした。このころから私は、相手方に対し嫌悪感を持つようになっていたのです。」
この頃、妻が「マンションに子供を閉じ込めて殺した母親の気持ちが分かる」と何度も言ったため、虐待されるんじゃないかと「目が離せない時期」だった。「収入がない」そうだが、職業訓練を受けていたから、生活費として失業保険を渡していたが、その金はどこに消えたのだろう。
「相変わらず仕事しないで家に居続ける状況」って、朝は九時まで娘の世話、夕方四時過ぎに帰宅して育児をしていたのだが、彼女の中の私は一日中家にいて、いったい何をしていたのだろう。
常識的に考えても、かなり不思議な陳述書だが、家庭裁判所はこういう部分には一切疑問を持たない。
「相手方は、家にいるから暇なのか、私の子供の接し方について根拠のない言いがかりを言うようになってきたのです。 娘がチーズをたくさん口に入れてしまった際に、のどを詰まらせないように口を開けさせようとしたところ、『虐待だ』と言ってきます」
チーズをあげていたのは私で、一個ずつあげていたところへ突然入って来たのに、彼女は何を見ていたのだろうか。
「娘がインフルエンザに罹った際、薬を飲ませようとする私を、『無理にのませなくてもいい』と止めるようなことまでしたのです。」
泣いて嫌がる娘の「頭を押さえつけろ」と怒鳴る妻を制止したのが事実。
「私の職場に押しかけて私の手を掴むなどし、一一〇番通報をするなどの騒ぎとなりました。相手方の強引な行為に対して、驚きや恐怖を感じるとともに、職場の周囲の人たちに対して本当に恥ずかしかったです。相手方は、その後、警察署で事情聴取を受け、『今後、騒ぎを起こさない』という旨の念書を作成していたようです。」
「恥ずかしい」と言いながら、堂々と野次馬とともに並んで、彼女は平然と同僚と話をしていたが、恥ずかしくなかったのだろうか。義父もまた、パトカーが並ぶ駐車場の真ん中で仁王立ち。念書に最初にサインをしたのは彼女と義父だが、「作成したようです」という推定表現は何なのだろう。
この陳述書で、なぜ最初の調停が取り下げられたのかが判明。
最初の弁護士は、「離婚の手続きをすすめていくことに消極的であり」、「相手方において長女に対する一応の監護ができている」と自分の意思に反したことを書いたため、委任契約を終了したそうだ。
年輩の弁護士で、経験上、依頼人が何かおかしいことを感じて降りたのかもしれない。深く関わるほど、トラブルも大きくなる。私が良い、いや最悪の見本だ。
その調停が取り下げられた途端、私が強気になったそうだ。「精神病院へ通って、性格を直して来たら戻ってきていい」と言ったらしい。
もちろん、言っていない。
カウンセリングに行ってほしいと頼んだのは事実だが、この時点では、まだ病気か何か分からない。精神保健福祉センターの担当者からボーダーラインのことを聞き、図書館へ行って人格障害の本を借りまくった。病気だったら治る、そんな甘い期待をしていたからだ。嘘の申立書と陳述書、そして娘を母親へ渡せという判決で、家庭を維持したいという淡い期待は木っ端微塵に打ち砕かれた。
長くなりましたが、基本的に嘘だらけの陳述書ですが、目立ったところだけ取り上げました。
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