第九章

九 水内春斗の目標

 放送前日。俺は櫻子の部屋の前に立っていた。この時間の廊下は冷え込んでいる。裸足の足裏を通して冷気が俺の体を伝ってくるようだった。


「櫻子。起きてるか?」


 多分、起きている。日も変わっていないし、わずかにテレビの音が聞こえる。夜型の生活を送っている妹はまだ寝ていないはずだ。


 夕食の際、盆の上に手紙を乗せ、要望は事前に伝えている。明日の放送は絶対に見てほしい、と。


 今しようとしていることは、あくまでも念押しだ。改めて声を掛けておきたかったのだ。


「明日の番組、櫻子に見てほしいんだ」


 返事はない。それでも、俺は続ける。


「主役は二年生の女子生徒だ。その子はずっと独りだった。体が弱いってハンデもあって、報われないことが多かった。


 そんな彼女が、最後の学園祭で目標を達成させるまでのドキュメンタリーだ」


 俺は鵜久森のことを想う。俺にとっても、あの舞台が彼女の最後の姿だった。あれから一切会っていない。


「諦めそうになったときもあった。それでも、色んな人の力を借りてがんばれたんだ。乗り越える力をくれる人たちに出会えたんだ」


 俺は主役視線で説明する。それに俺自身も含まれるのなら、少し気恥ずかしいものがあった。


「放送時間は今までと一緒だ。絶対に興味深い内容になってるはずだから、見てくれたら嬉しいよ。……おやすみ、櫻子」


 言いたいことを言い終えると、俺は自室に戻っていった。


 見てくれるといいな。俺はそう思いながら、明日を待った。



 金曜日は六時前に目覚ましが鳴る。六時になると、俺たちの番組がスタートする。


『ミナトハイスクールTV』


 安直なタイトルである。誰が付けたのかはわからないが、俺が小さい頃から一度も変わっていないタイトルだった。


 軽やかな音楽と共に湊高校の校内風景が映される。そして、字幕で放送の内容の説明が入った。


『今年も行われた湊学園高校の学園祭。学園祭の二日間の様子は数回に渡ってお送りする予定ですが、今回は今年度初めて開催された代休を利用した三日目の学園祭、「葵祭」の様子をお届けします。


 本来なら休みの月曜日。学園祭の余韻の残る校舎に、多くの生徒が集まりました。葵祭は生徒による学園祭延長の要望に、理事長が「当校の理念に沿うためには課外活動こそ最重要である」と再認識し、自由参加という形で実現したものです』


 続いて葵祭の説明だ。これはうちの生徒でもほとんどが知らないことなので、説明する義務があった。理事長からも頼まれていたのだ。


 音楽が止まり、カメラは陽明舎を捉える。先ほどまでの映像とは違い、そこには人影が窺える。少し遠い位置からのカットの後、主役へズームアップしていく。


『番組の主役は二年生の鵜久森葵さん。病気療養のために退学することが決定しています。


 彼女には学園祭の舞台に立つという夢がありました。退学を前にしたある日、最後の学園祭に向け、その夢を叶えるために動き出しました』


 このテロップの中で、制送部のことが語られることはない。俺たちはあくまでも裏方なのだ。


『そんな彼女に手を差し伸べたのは、一人芝居をする予定だった演劇部の三年生、大空築希さん。二人は最後の学園祭という共通の目的を持って歩き出したのです』


 もう一人の主役である大空が紹介される。番組構成としては、大空が自ら手を差しのべたように見えるだろう。そのほうが俺たちが隠されるから都合がよかったのだ。


 その後、練習の風景が数十秒ほど流れると、鵜久森へのインタビューのシーンに切り替わる。鵜久森の声を聞くのは久しぶりだった。


『どのようにして学園祭の舞台に出演する決意をしましたか?』


「……背中を押してくれた人が居ましたから」


 鵜久森はカメラの奥に視線を送る。そこには俺が居た。この時の俺は首を横に振った気がする。


「私一人では何もできませんでした。でも力を貸してくれる仲間が居て、築希先輩が居て、私は勇気を貰いました。それで出演することができたんです」


 そう言って瞼を閉じる。それは緊張しているようにも噛みしめているようにも見えた。


『最後の舞台に向けての意気込みは?』


「支えてくれた人たちに応えたいです。


 そして、見てくれた人の勇気になりたいです。勇気を出せたから仲間ができて、仲間と一緒だからここまで来られました。きっと、一つの勇気で物事って大きく変わるんです。それを伝えたいです」


 このインタビューを撮影したのは葵祭の開催が決まってからだった。これは櫻子に向けて言ってくれている。俺がそのことに気づいたのは、編集している時だった。


 場面が葵祭当日へと切り替わる学校の様子が流れると、いよいよ舞台のシーンとなった。


 大空の堂々たる演技。その迫力で会場を制圧すると、次は鵜久森の出番だ。


 ある程度はカットしなければならなかったが、大体の話の筋がわかるようにテロップも用いながら、印象的なシーンを抜粋した。


 鵜久森が苦しそうだった部分も当然選んだ。あの真に迫った演技を多くの人に見てもらいたかったのだ。


 最後のシーンが終わると、会場が拍手に包まれた。そこまで放送すると、学校の風景に切り替わり、簡単なテロップで締める。


 これで今回の放送はおしまいだ。俺たちの三週間が集約された二〇分だった。この時点で、正式に制送部としての目標は達成されたのだった。


 どれだけの人がこの番組を見てくれただろうか。普通のテレビ番組に比べると見る人は少ないだろうが、在校生を含む関係者の視聴率は高いはずだ。


 制送部のみんなはもちろん見ているし、きっと鵜久森も、ひょっとすると大空も見ているかもしれない。


 より多くの人が鵜久森の姿を見て心に響いてくれたら嬉しい。でも、俺にとって最も重要なのは櫻子が見てくれていることだ。


 今、櫻子は何を思っているだろうか。俺は近くて遠い、隣の部屋に思いを馳せた。



 当日の学校では、放送の感想を言い合うのが定番だった。しかも、今回のような力のこもったものになると、その話題は途切れることがない。


「惜しむらくは、比呂光の声を消しそびれているところがあったことかな」


「場を盛り上げてただけじゃん」


「ヒューヒュー、とか、葵ちゃんかわいいー、とか下心丸出しのバカ声なんて不快感しか沸かないわよ」


 制送部は、学園祭の映像の編集作業をしていた。学園祭が終わってからは、しばらく編集のみの部活動だ。例の演劇部の回を始め、学園祭の様子を選りすぐってお届けする。


「何だか、学園祭が終わると静かだよね」


 部長が言う。映像が揃っているため、編集ものんびりとしたものだった。


「そうだな」


「春斗は本当に呆けてるわよね。授業中もボーっとしてさ」


「そんなことはない」


 優陽が言うと、俺はすぐに否定する。


「葵先輩が居なくなったこと、引きずってるんじゃないの?」


 そう茶化される。未だに学園祭でのことを冷やかされるのか。俺はため息をついた。


「なんで俺が鵜久森が退学したことを気にするんだ。元からそう決まっていたことなのに。ただ俺は学園祭が終わって疲れているだけだ。」


「でもねぇ……。それにしても、葵先輩元気かな」


「お元気そうですよ。次の月曜日に入院されるそうです」


 天王寺が教えてくれる。結局、一番仲良くなったのは天王寺のようで、たまに連絡を取っているらしい。


「だから、今日の放送も見てくれてるはずですよ。水内くんの考えていた通りでしたね」


「何? 葵先輩に見てもらうために当日仕上げだったんだぁ」


「やっぱりそうなの? 水内くんも、鵜久森さんと連絡を取ってるの?」


 ……これ、本当にいつまでいじられるのだろうか。部長が最もノリノリで、テンションが急上昇している。早めに壁に追い詰めておかなければなるまい。


「畜生! 水内ばっかり!」


「お前だけはいじるなよ。ばらすぞ」


「どれをだよ!」


「やっぱり何か後ろめたいことはあるんだな」


「げっ!? な、ないよ!」


 小鳥遊にいじられることだけは、俺のプライドが許さない。それだけは全力で阻止しなければなるまい。


「そろそろ手を動かせ。間に合わなくなるぞ」


 ビシッと言ったつもりだったが、優陽と部長はにやけてしまう。


「はいはい」


「がんばらなきゃねー」


「…………」


 あの日だけでずいぶん威厳が失われたものだ。元々あったかもわからないが、ここまでやりづらくなるとは思わなかった。


 作業を再開すると、ひっそりと近づいてくる影があった。天王寺だ。


「どうでしたか?」


 小声で言う。これは櫻子のことを言っているのだろう。


「見てくれたはずだ。何か感想でも聞けたらいいんだけどな」


「そうですか」


 にっこりと微笑む。天王寺は櫻子のことを気にかけてくれている。あの日、自身が言ったことを覚えているだろうか。



 その夜、俺は明日から休日だということもあり、ずっとテレビを見ていた。


 気が付くと、すでに日は変わり、時計は一時を回っている。そろそろと思い、電気を消してようやく寝ようとするが、なかなか寝付けなかった。


 頭の中で思考が巡る。俺は鵜久森と過ごした学園祭二日目を思い出していた。


 鵜久森は俺の姿こそ櫻子に見せるべきだと言ってくれた。しかし、俺は今回のことでも、人を利用しただけだと思う。人を使うことで、なんとか壁を乗り越えてきた。俺だけの力では絶対に無理だった。


 俺は一人では無力だ。でも俺には仲間がいる。互恵関係にあった鵜久森、制送部の仲間や藤原部長、大空もそうだった。一つの目標に向かえる仲間がいたから達成できたのだ。


 俺に誇れるものがあるとすれば、それは仲間だと思う。そう考えていると、櫻子に見せるべき姿というものを思い描けてきた。そんな気がする。


 音が聞こえる。ドアの開く音だ。それはもちろん、櫻子の部屋からのものだった。


 櫻子は家族の居る時間は部屋の外に出てこないが、母と俺が外出中か、あるいは寝静まった深夜に動き出す。時計を見るともう二時を過ぎているし、寝たと思ったのだろう。


 こういうことは今まで何度もあった。しかし、俺はこれ以上櫻子に強引なことをするまいと思い、無理な接触を避けていた。自分から関わろうとしてくれるまでは、テレビを通して呼びかけることしか出来ないと考えていたのだ。


 しかし、今回ばかりはどうしても櫻子の感想が聞きたかった。それだけ鵜久森の映像には自信があったのだ。訊くなら今しかない。


 俺は立ち上がり、ドアに近づいた。そしてゆっくりとドアノブを回し、音を立てずに引いていく。


 隣の部屋から漏れる光が彼女を照らしている。細い体と長い髪。モップのようなシルエットの少女がそこに立っていた。


 俺は意を決し、口を開いた。


「櫻子」


 声を掛けると、櫻子はビクッと肩を大きく揺らし、ゆっくりと振り返る。


 伸びすぎた髪は腰くらいまであり、そのボリューム感が体をさらに細く見せる。


 顔を見たのは久しぶりだ。少しやつれているのは、食事が不十分だからだろう。動きが遅いが目だけは忙しく動いており、俺と視線を合わせることはなかった。


「……やっぱり、もう少しご飯は食べたほうがいいな。前よりもやつれて見える」


 櫻子は俺の言葉に反応を示さなかった。ドア越しでも対面してても変わらない、いつも通りだ。


「番組、見てくれたか?」


 俺は余裕を持って反応を待った。すると、かなりの間を置いてから、ゆっくりと頷いてくれた。こうしてちゃんと反応を貰えただけでも、話しかけた甲斐があった。


「今日の……もう昨日か、放送分はどうだった?」


 これはチャレンジだった。イエスノーで答えられない質問で、櫻子の声を聞こうと思った。そして、感想を聞きたかった。


 櫻子はまた長い間を置く。言い回しに悩んでいるのか、内容を思い返しているのか。そのどちらでもないかもしれない。とにかく俺は櫻子の言葉を待った。


「……いつもより、良かったと思う」


 久しぶりに聞いた声は、よほど聞こうと思わなければ聞こえないようなか細い声だった。俺は聞き逃さないようにと耳に神経を集中させて聞き取った。


 三週間追いかけ続けて、感想はその一言だけだった。でも称賛の言葉だ。今までよりも興味を持ってくれたのなら、それで大成功なのだ。


 櫻子の口からその感想を聞けただけで満足だった。でも、ようやくこうして向き合ったのだから、俺はもう少し彼女に求めてみることにした。


「櫻子も何かしたいことはないか?」


 鵜久森のように無茶なことを望んでほしい。それが彼女の第一歩だったのだから。


「……私には、できないから」


 しかし、出てきたのは諦めの言葉だった。そこに悲しみや絶望感は存在せず、当たり前のことのように言ったのだ。


「そんなことはないさ。あの人だって、諦めかけたことがあったんだ。それでも、協力してくれる仲間がいたからなんとかなったんだ」


「そんなの作れない。……私には」


 今度ははっきりと伝わる声だった。まるでそのことに関してだけは自信を持っているとばかりに、間髪を入れずに否定した。


 櫻子は全てを諦めていた。だから、鵜久森の姿も全然別の世界のもののように見えたのかもしれない。


 でもそれは違う。俺はそのことを自分の言葉で説明しなければならない。きっとそうしないと櫻子には伝わらないのだ。


 櫻子は俺に背を向け、階段のほうへ歩き出した。まるで逃げるようだった。


 俺はそれを追いかけた。本当に逃げているわけではない櫻子はすぐに捕まる。俺がやんわりと肩に手を置くと、櫻子は足を止めてくれた。


「鵜久森だって……あの人だって、最初は一人だった。だから一歩目を踏み出すことに悩んでいた。でも勇気を出して踏み出してみると、二歩目も三歩目も自然に足が動いていたんだ。色んなことが流転した。


 どんな一歩でもいい。些細なことでも、逆にとんでもなく大きなことでも、何かを始めるだけで世界が変わることだってあるんだ」


 鵜久森はそうして自分の世界を変えた。櫻子だって、一歩踏み出すことで世界を変えることができる。俺はそう思っている。


 そのために必要なのが勇気であり、鵜久森はそれを示してくれた。俺は櫻子にそれを受け取ってほしかった。


 部屋の前から動いたために、櫻子の表情は暗がりで見えなくなっていた。どんな表情をしているのかわからない。それでも俺は続ける。


「櫻子。お前は俺に失望しているのかもしれない。だから頼ってくれとは言わない。でも信じてほしいんだ。


 俺は絶対にお前の味方だ。そして、俺の仲間もお前の味方だ。だからお前が何かしたいなら、俺も仲間も全力でお前を支える。


 俺の仲間は、俺なんかよりずっと頼りになるやつらだ。だから、やりたいことがあったらなんでも言ってくれ。絶対に力になるから」


 鵜久森が見せるべきだと言った俺の姿。それは俺と仲間の姿だった。


 櫻子にも入ってみてもらいたい。そう天王寺が言ってくれた。俺一人では大したことしかしてやれなくても、制送部の仲間がいればなんだってできる。今回の一件で俺は確信したのだ。


 櫻子は身動き一つ取らない。骨張った肩からも何も感じ取れない。


 言葉を待つしかない。静かで長い間だった。


「……うん」


 ようやく出てきたのは小さな声だけど、ちゃんとした肯定だった。


 肩から手を離すと、また歩き出し、ゆっくりと階段を下りていった。俺は一気に力が抜けた。


 少しでも響いてくれただろうか。久しぶりに話した妹の本心をはっきりと理解するのは難しい。


 でも話せて良かった。テレビ画面を通してしか呼びかけることができないと思っていたが、こうして顔を合わせることができたのだ。それはきっと、これから先に繋がる。


 これも勇気を出した一歩だ。俺の一歩目。きっと二歩目も三歩目も歩いていける。その先に、櫻子の一歩目が見えるはずなのだ。


 部屋に帰ろうとすると、櫻子の部屋から何かが出てきた。ミイコだ。俺は思わず抱きかかえた。


「お前だけはこのドアの向こうに行けてたんだな」


 なー、という声が返ってくる。呑気なものだ。


 俺はミイコを櫻子の部屋に戻るように促した。お前だけは一緒に居てやってくれ。すると、ミイコは、なー、という鳴き声とともに、部屋へと帰っていった。

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