七 鵜久森葵の青春②

「普通に堂々としていればいいと思うんだけど」


 鵜久森が呆れたようにこぼす。まさか俺が鵜久森にこんな表情をさせることになるとは、自分でも思わなかった。


「知り合いに見られると気まずいんだ。わかってくれ」


「水内くんは顔が広いから、そうなるとどこにも周れなくなっちゃうよ」


 確かに、ここまではずっとそんな感じだった。やれダンス部だ。やれおわ研だ。やれ書道部だ。俺は知り合いを見つけるたびに、颯爽と隠れていたのだ。


 でも、鵜久森の学園祭の思い出を、このままにしておくわけにもいかない。どこかで覚悟を決めなければならないようだ。


「じゃあせめて、制送部に見つかりそうになったときだけは逃げさせてくれ」


「制送部っていっても、あとは杏奈ちゃんと優陽ちゃんだけでしょ?」


「そうだけど……」


 その二人に見つかるかどうかが、俺の権威に関わる重要なポイントだった。


 天王寺にはしつこいくらいにネタにされ、優陽には怪しい顔で笑われる。そんな姿が容易に想像できるのだ。


「まあいっか。とりあえず何か食べよう」


「そうだな」


 俺たちは、手近だったバドミントン部の模擬店でチュロスを買うと、人の少なそうな場所を求めて移動し始めた。


 やって来たのは、A棟とB棟を繋ぐ、渡り廊下の屋上通路だった。どうやら、人の行き来は一階に集中しているようで、渡り廊下の、それもその上となれば人も少ないらしい。


「学園祭ってこんなに楽しいものだったんだね」


 鵜久森が感慨深そうに言った。


「まだ人混みを歩いてチュロスを買っただけだぞ」


「雰囲気の問題だよ。それに、さっきからキョロキョロしている水内くんがかわいいし」


 かわいい……。言われたことのない形容詞だった。


「キョロキョロしているわけじゃない。ただ警戒しているだけだ」


「それがキョロキョロだと思うけど」


 そう言って笑う。俺はもう抵抗するのは諦めることにし、話題を変えようと思った。


「ここは良い休憩場所になりそうだな。休みたくなったらここに来よう」


「そうだね。じゃあ、次はどこにエスコートしてくれる?」


 鵜久森が言う。やっぱりと言うべきか、今日の彼女のテンションは高いらしい。


「お前の行きたい場所でいいだろう」


「私、あまりこういうの決められるほうじゃなくて。恋人役が引っ張ってくれたらうれしいな」


 こいつ、意外とSなのかもしれない。こっちが弱っている様子を楽しんでやがる。俺は一つ咳払いを入れる。


「ベタなところでいいか。お化け屋敷とか」


「……すっごくカップルっぽい場所だね」


「やっぱりやめとこう」


「行こうよ。ほら、あるよ、お化け屋敷」


 鵜久森は俺の手を引こうとする。さすがにそんなことをされては堪らないので、俺は大人しく従うことにした。


 お化け屋敷は、中々変わった趣だった。思ったよりもきつかった。


 お化けが怖いわけではない。それは暗黒の怖さである。真っ暗な室内を、ただひたすら歩き続ける。


 視覚的な恐ろしさを暗闇で済ませ、効果音を使って聴覚に恐怖心を訴えてくるやり口だった。


 卓球部の出し物だったはずだが、卓球とは全く関係がない。


 見えない恐怖は、男の俺でも不安になるものがあった。果たしてこれがお化け屋敷と言えるのかは定かではないが。


 当然、鵜久森も怯えていた。だから俺は、袖口を持たれることも許容した。


 それが終わると、少し気分がのってきたため、今度は軽いアトラクションで遊ぶことにした。輪投げや射的。そんな縁日的なものでお茶を濁すと、もう十一時くらいになっていた。


「次はどうするかな」


 A棟の廊下を進んでいく。早いが昼飯にでもしようか。そう提案しようかと思ったその時だった。


 鵜久森の手が、俺の右手を掴んだ。俺は心臓が胸から飛び出すような錯覚に襲われる。


「ちょ、ちょっと、鵜久森」


 俺は思わず手を離す。これはあくまでも体験イベントのようなもの。そういうことは本当の恋人を作ったときにするべきだ。


 振り向くと、鵜久森の様子がおかしかった。ふらついているように見える。俺は、今度は自分から鵜久森の手を取る。その手は冷たかった。


「大丈夫か? すまない……」


「ううん、こっちこそごめんね」


 調子づいたせいで、少し無理をさせてしまったようだ。俺はそのまま彼女の手を引き、さっきの休憩場所へと連れていく。


「座れるところを探したほうがよかったな」


「ううん。人が少ないことのほうがありがたいよ。ここで手すりにもたれているだけでいい」


「そうか」


 俺はすぐに飲み物を買いに行く。一階の自販でペットボトルのお茶を購入すると、俺は大急ぎで鵜久森のところへと戻った。


「そんなに急がなくても大丈夫だよ」


「いや、構わない……」


「ありがとう……」


 鵜久森はペットボトルのキャップを取り、ポケットに放り込む。そして、お茶をチビチビと喉に流し込んだ。見るからに辛そうだった。


「そろそろ体育館に行くか。そこでならずっと座っていられるし」


 俺はそう提案する。しかし、鵜久森は首を左右に振った。


「……こんなに楽しい時間、こんな形で終わらせたくないよ。大丈夫、少し休めばまた動けるから」


 鵜久森は意地になっている。強引にでも休ませるべきだろうか。鵜久森達の本番は明日だし、ここでまた体調を崩せば全てが台無しになってしまう。


「本当は昨日もかなり悪かったんじゃないか? 今日は無理しないほうがいい。明日のためにも――」


「私にとっては今日も大事なの」


 それは強い口調だった。鵜久森は一度深く深呼吸をする。


「……水内くんは、学園祭に向けて抵抗した私のことを、弱くないって言ってくれたよね。


 でもそれって違うの。私、あの時はもう諦めてたから。部活動のポスターを、ただ羨ましくて眺めてただけなんだ」


 鵜久森は辛そうに言う。俺は鵜久森の声が小さくても聞こえるように、彼女のそばに寄った。


「でも、ここまでがんばってきたお前がいるじゃないか」


「私は水内くんが背中を押してくれたからがんばれたの。水内くんがあの時声を掛けてくれなかったら、何もせずに帰って、今頃はもう学校に来ていないんだよ」


 鵜久森が俺の右手を握る。小さくて冷たくて震えた手。俺は、今度は逃げずに握り返した。


「……だからね、自分で勇気を出したことも、ちゃんとやり遂げなきゃって思ったの」


「それが、今日なのか?」


「うん。今日のことは、自分自身で決意したことだから」


 鵜久森が今日という日にこんな強い想いを持って来ているなんて、俺は考えもしなかった。


 あの夜を思い出す。


「……ちょっとだけ、学園祭を一緒に周ってくれないかな?」


 その言葉は、鵜久森がありったけの勇気を出したものだった。そして、これまでの、これからの鵜久森にとっても重要な言葉だった。


 今日の逢引は思っていた以上に重大なイベントだった。体は心配だが、ここで今日を諦めさせるのもまた無責任だ。俺は彼女の背中を押した責任を果たさなければならない。


「……わかった。でも良くなるまでここでジッとしてよう。俺のことは気にしなくていいから、無理だけはするな」


「ありがとう」


 そうするとやっと、鵜久森は微笑んでくれた。



 下の方から聞こえる喧噪。それはまるで時間の流れ方が違う別世界から聞こえてくるようだった。


 俺たちは手を繋いだまま、手すりにもたれかかっていた。時おり、鵜久森はお茶を口にするが、すぐにまた手を繋ぎなおしてくる。俺はもう無抵抗だった。


「何か必要なものがあれば言ってくれ」


 俺はそんな軽い質問を何度か投げかけていた。今の俺は、彼女になんでもしてやりたいと思っていた。


 それでも、鵜久森は「大丈夫」と小さく口にするだけだった。だから、待つしかなかった。


 一〇分ほど過ぎただろうか。


「あのとき――」


 今度は鵜久森から口を開いた。だいぶマシになったのか、ちゃんとした声に戻っていた。


「水内くんが最初に声を掛けてくれたとき、ね。あのとき私、心臓が張り裂けそうなほどドキッとしたの」


「そんなに驚かせたか?」


 俺が言うと、鵜久森は笑った。


「違うよ。……私ね、この人が私の運命の人かも、って思ったの」


「――うんめい!?」


 運命の人。それはまた――ロマンティックな。


「あのときの私はね、本当に真っ暗な闇の中にいたの。それこそ、さっきのお化け屋敷みたいな。


 だから水内くんに出会ったとき、光が見えて道ができた気がした。だから、私は水内くんを運命の人だと思ったの」


「それはまた……悪いことをしたな」


 運命の人だと思ったら、こんな強引な自己中男だったなんて。ショックだろう。


「本当だよ。だって、次に会うときは優陽ちゃんや杏奈ちゃんみたいな、かわいくて華のある人を連れてくるんだもん。すぐに自信を失っちゃった。


 ああ、やっぱり私なんかをそんな目で見てくれてるわけないんだ、って」


 俺の考えと鵜久森の言葉は、微妙にすれ違っていた。鵜久森が続ける。


「それでも水内くんは、私のことを引っ張ってくれた。築希先輩と出会わせてくれて、制送部のみんなと一緒に私を支えてくれた。すごく楽しかったし、嬉しかった。


 でも、不安もあったの。なんで私のためにここまでやってくれるんだろう。いくらテレビ番組のネタにするといっても、こんなにみんなを巻き込んで許されるのかなって。


 だから、体調を崩したときも、これで良かったのかもって思ってたの」


 確かに、たかが二〇分の番組のために、三週間も密着するのは異常なことだろう。鵜久森はそんな疑問により、不安になっていたのだ。


「それなのに、また連れ戻してくれた。私のことを認めてくれて嬉しかった。


 そして、妹さんの話を聞いて納得したんだ。私と同じで水内くんにだって事情がある。水内くんは妹さんのための道を私に示して欲しかったんだって。


 考えてみたら、築希先輩にも事情があるし、杏奈ちゃんや優陽ちゃんにだって事情があるんだよね。それぞれが何かのためにがんばっている。


 それを知ってから、なんだか楽になれたんだよ。私のためじゃなくて、みんなはお互いが報われるために支え合ってる。それなら私もその一部になりたい。みんなに返していきたいって思った」


 さっきまで体調の悪そうな顔をしていた鵜久森だが、今はそんな風に見えなかった。


「自分のことだけだと簡単に諦められるのに、誰かのためだと思うとがんばれるんだね。これはもう私だけの問題じゃないんだって思ったから、私は戻って来られたんだよ。


 水内くんの妹さんのためにも、私、やり切りたい」


 鵜久森の言葉に、俺は救われた気分になった。鵜久森は一緒に櫻子へ手を差し伸べてくれようとしているのだ。


「……やっぱり弱い鵜久森なんてもういない。すでに生まれ変わってるじゃないか。だから、そのままのお前で、健康になって戻ってくることを俺は祈るよ」


 生まれ変わるのは体だけだ。そのままの心の鵜久森と、また会いたいと思った。


「ありがとう」


 俺たちはお互いを見ずに、手を繋いだまま立っていた。俺たちの関係は一体どのように見えるだろう。主役と裏方だと気づくやつはいるだろうか。


 俺はまだフレームの中に入りたくはない。だからそろそろこの手を離さなくてはならない。それなのに、掴んでいないと鵜久森が遠くへ行きそうで、離せないでいた。


 それでも、俺は心臓を大きく叩かれたような感覚とともに、その手を離すことになった。


 視界に入ったのは、死んだ目をしたウサギだった。


「ウサギ……?」


 ウサギはこちらに近づいてきて、鵜久森に対し、手をパーに開くジェスチャーをする。


 言われるがままにそうすると、そこに棒付きのキャンディーが置かれる。その袋には『葵祭』と『月曜日』の文字が見えた。


「あ、ありがとう……」


 次に、ウサギは俺の前に来る。俺は顔を引きつらせながらも、早く去ってくれと言わんばかりの視線とともに、両手を開いた。


 すると、そこに飴は置かれなかった。ウサギは何か別のジェスチャーをしている。


『ちゃんと手を繋ぎ直さなければなりませんよ』


 そんな声が聞こえてきそうだった。


「わかったから、もう去ってくれると助かる」


 そう言うと、ウサギはうんうんと頷いて、その場を離れた。


 しかし、そこからもしつこく、数メートル歩くたびにこちらへ振り返った。その表情も相まって、かなり不気味な行動だ。そして、もう完全に弱みを握られた状態だった。


「かわいかったね」


「どこがだ」


 顔も行動もこの上なく怪しかったぞ。さすがにゾンビではなかったが、かえって気持ち悪かった。


「……体調も良くなってきたみたいだし、そろそろ移動するか」


「そ、そうだね」


 俺たちはどこか気恥ずかしさを感じながら、休憩場所を後にした。

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