第五章
五 水内春斗の理由①
鵜久森を保健室に連れていくと、俺たちは外へ出されてしまった。保険医によると、すぐに保護者が来るから大丈夫、とのことだった。
「大丈夫でしょうか……」
俺は肯定も否定もできない。鵜久森は体が弱い。精神的にショックを受けただけならまだしも、何かが体に障った可能性もある。
鵜久森の体調不良と劇の中止。二つの衝撃を受け、俺たちは不安の沼に沈んでいた。
「鵜久森は何か言っていたか?」
あの時、天王寺は先に鵜久森のほうへと寄っていってくれていた。そして話を聞いているうちに、鵜久森は倒れてしまったのだ。
「はい。……演劇部の都合で、お二人の枠を取れなくなったとのことです。それで築希先輩は脇島部長に怒ったそうですが……」
天王寺が珍しく言い淀む。
「どうした?」
「……タバコのことで、自分から辞退するようにと迫られたそうです」
皮肉なことだった。脇島は大空の非行を知っていた。そして、俺たちが大空にしようとしたことを、脇島は実行したのだ。それは確実に大空を追い詰めることになった。
辞退。それは俺たちの目的も、鵜久森の努力も全て台無しにするものだった。
「演劇部へ行ってくる」
「あ、私も行きます!」
「いや、俺だけで行く。天王寺は放送室に戻って他の三人に報告しておいてくれ」
そう天王寺に伝えると、俺は急ぎ足でその場を離れた。
今日の演劇部の活動場所がどこかはわからない。ただ、陽明舎のホールにはいなかったので、次に可能性の高そうな第一体育館へ向かうことにした。
外から見ると、体育館の横の扉が開いていなかった。多分、今日はバドミントン部が活動しているのだろう。じゃあ正面から中に入るしかない。
施設内に入ると、靴を備え付けのスリッパに履き替え、アリーナへの扉を開いて中を覗く。
そこには予想通りバドミントン部がいた。風に影響されやすいから横の扉を閉めているわけだが、そのせいで熱気がこもっている。よく一緒にしているバレーボール部から苦情がこないものだ。
奥の舞台に演劇部の姿はなかった。全員が袖にいる可能性もなくはないが、かなり低いため、先に二階のほうを覗こうと思った。
アリーナの手前には体育倉庫、トレーニングルームがあり、その真上には、それぞれ武道場、多目的ルームがある。
それらは、実際はただのサイズの違いで、アリーナが特大なら、多目的ルームが小、武道場が極小、くらいのものだった。
俺は部屋の外から、音で中の部活動を判別する。武道場にいるのは卓球部だとすぐにわかる。多目的ルームにいるのは……間違いない、演劇部だ。
俺は扉を軽くノックをしてから開けた。視線がいくつか向けられるが、俺は気にせず用のある人間を探す。
脇島は俺よりも先にこちらに気づいたようだった。俺は中に入り、脇島の元へと近づいていった。
「脇島部長」
俺は努めて冷静な声で言った。
「なに? 忙しいんだけど」
「少し時間をもらいたい」
「……いいわ」
来ることを予想していたのだろう、あっさりと従う。俺はそのまま廊下へと彼女を導いた。
「で、なに? カツアゲでもされちゃうのかしら」
脇島はからかうように言った。
「話が違う」
「なんの話よ?」
「とぼけるな。大空のことだ」
「あー」
わざとらしい反応だ。俺を怒らせたいのだろう。
だがここで感情を昂らせてはダメだ。脇島の挑発にのってはならない。
「仕方ないのよ。どうしても尺が足りなかったの。一番人数の少ないところから時間をもらうしかないじゃない」
「大空は三年で最後の舞台なんだぞ」
「これまで貢献していないんだから、三年かなんて関係ない」
「それで、脅迫までしてやめさせるのが正しいことなのか?」
きっと、脅迫は唯一の妨害の手段だった。顧問の美学に対抗するには、自主的に引かざるを得なくする、あるいは強制的に排除することが必要になるからだ。
停学になるようなネタを握られていれば、大空は出ないか出られないかの二択しかないのだ。
「脅迫なんてしてないわ。ただ私は交渉しただけ」
まるで俺の言葉を聞いていたかのような台詞だった。俺はこぶしを握る。
「……番組の件はいいのか?」
「最初から当てにしてないわ。制送部なんか女探しをしてるだけなんだから」
吐き捨てるように言う。こいつ、本当は信用なんてしていなかったのだ。
「今の制送部は以前のようなことはしない」
「してるじゃない。あの茶髪刈上げ君、制送部の名前を使ってナンパばっかりしてるわよ」
……あのバカ。ここに来て足を引っ張ることになるとは。
「部活の撮影にそんなやましい気持ちはない。鵜久森と大空のことだって、あいつらが真剣だから、俺たちも真剣に――」
話をしているうちに、俺は気づいた。これは大空を嵌めるためだけではない。俺たちにも痛手を負わせようというものだ。
「お前……最初からそのつもりだったのか?」
最初から、大空の枠なんてなかった。形だけのもので、タイミングを見計らって陥れるつもりだった。
そして、俺たち制送部が食いついたことで、それはより都合の良いものとなった。彼女が制送部を……憎んでいるから。
「私たちは演技をして、ちゃんと評価されたい。それだけでいいのよ」
そう言って、彼女は背中を向けた。俺はそれをただ見ていることしかできなかった。
放送室のドアを開けると、一斉に視線が集中した。
「どうでしたか?」
天王寺が心配そうに言った。俺は首を横に振る。
「俺のミスだ。脇島は俺たちの介入どころか、大空の一人芝居すらさせるつもりはなかった」
そう言うと、部長が目を伏せるのが見えた。俺は天王寺たちに理由を聞かれる前に、言葉を続けた。
「部長、少し話したいことがある。すぐに済む話だ」
「あ……うん」
俺は部長をブースへ移動するようジェスチャーで示した。
「なに部長と二人きりになろうとしてんだよ」
「あんたは黙ってなさい」
優陽にも助けられ、俺は部長と二人になった。部長は目を合わせないようにうつむいている。
「別に是か非か言わなくても構わないから聞いてくれ。脇島は前体制の制送部の被害者なんだな?」
部長はびくっと体を震わせる。それでもうわかった。
「悪い、部長にそんな顔をさせる気はなかった。ただ納得したかっただけなんだ」
落ち込む部長にそう言うと、俺はブースから出ようとした。すると、部長が俺のブレザーの端をつかんだ。
「多分、脇島さんは先輩のことを本気で好きだったんだと思う」
俺は改めて振り返ると、元気のない部長の顔があった。先輩、というのは前制送部の誰かのことだろうが、それを特定する気はなかった。
「なら、あからさまな被害者ってわけでもないのか」
「うーん……。でも、制送部の名前を悪く使っていたことには変わりないよ。それで、捨てられた、って思ったのなら、やっぱり辛いと思うよ」
前制送部は出演と交遊を引き換えにしていた。例えば、出演させてあげるから一緒に遊びに行こう、などというものだ。
それだけならまだグレーだったのだが、それで体の関係を迫る乱暴な輩がいたことで、自主退学者が出る事態にまで発展する問題となった。
脇島はどうやらそれほどの被害は受けていないらしい。俺は少し安心する。
もし後者のようなことがあったのなら、制送部が彼女に近づくことすら憚られるが、ただの男女間の恨みなら、それは当人同士の問題だからだ。
そこで、ふと思い出した。それはこの前部長から聞いたことだ。
「まさか、その元制送部の先輩と付き合っているのが大空なのか?」
「ええっ!?」
部長はたいそう驚いた。こっちまで驚きそうになるくらいだ。
「な、なんでわかるの?」
「いや、この前の話の流れも今思えば変だったから、部長がそう連想したんじゃないかと思ったんだ」
それに、あの時部長は名前を出しそうになっていた。本当に隙が多い人だ。
「はぁ……。うん、今も付きあっているのかは知らないけど」
自分のわかりやすさに落ち込む部長。まあ今それはいい。
大空と脇島の確執。その根っこには痴情のもつれがあったのだ。
脇島は意地でも演劇部での出演を許さないだろう。それは最初から決まっていた。
そして、そのことで最もダメージを与えられるタイミングを狙っていた。そういうことだったのだ。
「事情はよくわかったよ。悪いな、こんなことまで話させて」
「……ううん。みんなが気を遣ってくれてるの、わかってるから」
部長はそう言って、また困ったような微笑みを見せた。
「なんの話をしてたんだよ」
「言わん。天王寺や優陽には言うかもしれんが、お前には言わん」
「なんでだよ!」
なんでもなにも、小鳥遊に言ったってなんのメリットもないのだから仕方ないだろう。
俺は小鳥遊を放っておいて、天王寺と優陽を一瞥する。二人は見るからに元気がなかった。
「大空と脇島部長の確執は根深い。これから説得するのは厳しいかもしれない」
「そうですか……」
「……むかつく! なんで今さらなのよ」
露骨に落ち込む天王寺。怒りと悲しみの間にいる優陽。すっかり二人も鵜久森に肩入れしたものだった。
「で、どうすんのさ?」
小鳥遊が問う。こいつもこいつなりに、この状況に苛立っているようだ。
「……他の部から時間を貰うとか、なんらかの形で捻出していくしかない」
「それも、難しそうですね」
机の上にプログラムを置いていた天王寺がため息のように言った。俺が来るまで考えていてくれたのだろう。
天王寺の言うとおり、残り一週間を切っている状況でそんなことはできない。それこそ、今さらだった。
「何か脅す材料はないの? その脇島って女」
普段はこんな提案をするやつではない。優陽はかなりいらだっているようだ。すると、天王寺が俺の顔を覗いた。探すべきか、という問いだろう。
しかし、俺は気が乗らなかった。そんなものがあるとしても、それを使う気にはならない。脇島だって苦しんだのだろう。これ以上、彼女に憎悪を与えたくはない。
事態は決して勧善懲悪のものではないし、俺たちは正義ではない。脅したりしたら悪へ振り切れてしまう。
「やめておこう。それはよくない」
「じゃあ! ……諦めるっていうの?」
優陽は怒りをかみ殺すと、今度は悲し気に言った。
「ここまで葵先輩と築希先輩ががんばってきたのよ? これで終わりなんて……」
優陽の本質はこっちだ。人情派で、ただ心の底から鵜久森の達成を願っている。俺は優陽を悲しませたくもなかった。
「諦める気はない」
俺は断言する。それだけは決してあり得なかった。
「今日は解散しよう。少し考えたいからな」
不満と悲しみで覆われている空気の中、みんなはしぶしぶ頷いた。
◯
散会した後、俺は一人で学校を出た。
頭の中は、どうすればいいのかの最適解を求め続けていた。しかし、それらはすぐにため息とともに消えていった。
夕暮れの風景。心が前向きなときは、それを青春だと捉えていた。しかし、今の俺は、それが徐々に闇へ近づく焦燥と捉えていた。
暗くなって道が見えなくなる恐怖。闇という奥行きのある閉鎖。焦りばかりが強くなる。
ふいに、スマホが震えた。これは電話のパターンだ。ケースを開いてみると、天王寺から電話がかかってきていた。俺は応答ボタンを押す。
「どうした?」
「水内くん、まだ学校の近くに居ますか?」
「居るけど」
なにせ電車に乗る必要がないのだから、すでに帰宅していても肯定しただろう。
「じゃあ一緒にお見舞いへ行きましょう」
「お見舞い?」
「はい。葵先輩のお見舞いです」
どうやら、天王寺は鵜久森と連絡を取ってくれていたようだ。
断る理由などない。俺は鵜久森に会わなくてはならないと思っていた。
場所を伝えてしばらく経つと、そこへ立派な車が現れた。車種などは興味がないからわからないが、恐らく高級車の部類だろう。天王寺家の車なのだから。
「お待たせいたしました」
「いや」
俺はさも当たり前のように後部座席へ乗り込んだ。車内は広く、椅子の感触も良かった。こんな車に乗る機会なんて、これからの人生でも一度あるかないかだろう。
「お願いします」
「はい」
天王寺の指示に、運転手は車を走らせる。これは専属の運転手か何かなのだろうか。改めて天王寺が違う世界の生き物なんだと思い知らされる。
「優陽は?」
「もう電車に乗ってしまっていました」
「そうか」
車は大通りを進んでいく。鵜久森の家までならそう遠くはないはずだ。あるいは、入院なんてことになっていて、向かう先は病院なのだろうか。その可能性も否定できなかった。
そのことを訊こうかと思ったが、俺はその前に言いたいことがあったのを思い出した。
「連絡、取ってくれてたんだな」
「はい。心配でしたから」
「悪い、気が回らなくて」
よく考えたら、最も重要なのは鵜久森の体調だった。学園祭までに回復しなければ、枠の問題が解決したとしても、全て無意味になってしまう。体が弱いと聞いていたし、ちゃんと憂慮すべきだった。
「いえ、それぞれの役割があります」
天王寺はそう言って微笑む。ふざけたことを言わない彼女は、本当に上品なお嬢様なのだ。
「ちゃんとお見舞い品も買ってありますよ」
「お前って、結構頼りになるな。助かるよ」
「……ふふふ」
俺としては真面目に褒めたつもりなのだが、天王寺は怪しくドヤ顔をしてみせた。
照れ隠しなのだろうか。まあ、このほうが天王寺らしくて良かった。
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