クリスマスローズの咲くころに

 シノの気分はいいものではなかった。胸の中にねばねばした黒いなにかがたまっているようだ。なにをするにも、無意識にため息が出てしまう。


「フラれたわけじゃないでしょう?」


 いつもの市政資料館の喫茶室には、めずらしく店長がいた。ソラは所用で外にいるらしい。窓から見えるのは、腹立たしいほどの冬晴れだ。


「そうですけど……」


 明確に拒絶されたわけではない。しかしあの言葉に、シノはソラが自分との間に引いている線の存在をはっきり意識した。それを問答無用で乗り越えられるかと言われても、シノにはそんな度胸はない。


「そこは関係なく、どんどん行くべきところでしょう。相手のことだけ優先するんじゃなくて、自分のことも言わないと」


 シノはいつものカウンター席に座っている。ひとつ開けて座る女性店長は注文を聞く素振りも見せないが、愚痴であれ話を聞いてくれるのは有難かった。


「相手が迷惑かもしれないじゃないですか」


「そんなこと考えてると、一生恋愛なんてできないよ?」


「恋なんかじゃ……」


シノが言いよどんでいると、店長は大きなため息をついた。


「誰かに対して心乱れるってのは、つまり恋なんだよ」


 シノは返事もせず、きれいな青色に染まった窓を見つめている。窓辺の白い鉢植えには白い花が植えてある。花弁は深皿のように丸くなっている。


「あれはクリスマスローズだよ。ソラが植えたんだ。あとで花言葉を調べてみ」


 店長はシノの視線に気づき、いたずらっぽく微笑んだ。



 喫茶室を出て、石造りの中央階段を下りる。資料館のモダンな内装は映画やドラマの撮影に使われることがある。この空間にいると、シノはいつも過去にタイムスリップしたような気持ちがする。

 階段を下りて玄関を出るとき、シノは足を止めた。買い物のエコバッグを提げたソラも、玄関の前で足を止めた。ソラは一瞬はっとしたあと、すぐ顔を伏せてしまった。そのままシノの横を、早歩きですれ違おうとする。

 シノはとっさに、ソラの腕をつかんだ。ソラはシノの行動に驚いて、振り向いた青い両目は丸くなっていた。シノ自身も、自分がこんな行動が取れるとは思っていなかった。心臓の鼓動が直接耳に聞こえてくるほど大きくなっていた。


「……アンドロイドでも、好きなことを、しても、いいんじゃないか?」


 シノは声が震えていた。ソラはうつむいたまま動かない。


「アンドロイドでも、人間みたいな、ことを、してもいいんじゃないか?」


「…それでも、だめなのです」


 ソラは消え入りそうな声でつぶやいた。


「アンドロイドが、人間になってはいけないのです。アンドロイドは人間の、……道具なのです」


 ソラの口から絞り出された言葉は、秋のそよ風に溶けていった。

 明確な拒絶の声に、シノはぼうぜんとする。ソラの腕をつかんだ手は、石こうのように固まっている。

 これ以上言葉をつづければ、最悪の結末になるのではないか? しかしここで手を離しても、もう手遅れではないのか? 背筋が寒くなる。


『相手のことだけ優先するんじゃなくて、自分のことも言わないと』


『人によっちゃあ、それは禁忌ってやつじゃないかな?』


 二人の年長者の言葉が頭の中に響く。そして、白い鉢植えに植えてある白い花の映像が浮かぶ。深皿のように花びらが丸くなっている花喫茶室を出るまえにスマホで調べたクリスマスローズの花言葉―——。

 心臓の音が大きくなり、呼吸が浅くなってくる。体が締めつけられ、恐れおののくように足が浮つく。

 シノは一度、深く深呼吸する。両足を踏ん張り、言葉を発する。


「人のために存在するのがアンドロイドなら、ソラはなにも間違ったことをしてない」


 言葉を発すると、途端に震えは止まった。


「相手のことを想って、その人のためになにかをしたいって考えるのは、アンドロイドも人間も同じなんじゃないか?」


 ソラが顔を上げる。はっとするような真剣な表情で、青い瞳がシノの顔を捉える。いままで見たことがなかったソラの表情に、シノはどきりとする。


「……アンドロイドと人間が同じになったら、とても危険なことになります。越えてはいけない線があるのです。シノさんは、それを越えられるのですか?」


 はっきりとしたソラの口調に、シノはつばを飲み込む。しかしここでひるんではすべてがおしまいだと、両足をさらに踏ん張る。胸からせり上がる熱いものが、のどの奥から出てくる。


「……みんな、誰かを思いやって、その人の役に立ちたいと、その人の欠かせない存在になりたいって考えるんだ。人によってはそれが通じ合うかもしれないし、一方通行になるかもしれない。でも、伝えなきゃ、なにもできないんだ」


 シノはソラの腕をつかむ手に、少し力を込めた。


「俺はもう線を越えてるんだ。ソラ、もうはじまってるんだ」


 秋のそよ風が吹いて、ソラの濃いブラウンの髪を揺らした。地面に落ちた茶色い枯れ葉がかさかさと鳴ったあとに、耳が痛くなるような沈黙がやってきた。その時間が一瞬だったのか長かったのかは、シノにもソラにもよくわからない。


「——————いいのでしょうか?」


 真剣な表情から一転して、ぼうぜんとした表情のソラはつぶやいた。


「いいんだ」


 力を込めて、はっきりした口調でシノが答える。ソラの腕をつかんでいた手を、ソラの手に添える。はじめて触れた素肌は、温かかった。


「みんな、そうやって進んでいくんだから」


 胸からせり上がっていた熱を吐き出し切ると、シノは自分の台詞や行動が急にくさく恥ずかしく思えてきた。

 ソラが口角を上げて、安らかで、温かい笑顔を向ける。いままで見てきたおだやかな微笑みとはちがう、ソラの感情を直接感じられるような笑顔だ。シノは息を飲んで、胸にさっきの熱とは違う熱を感じた。そしてとうとうたまらなくなって、今度はシノがうつむいた。ソラはそのおかげで、ほおを流れるひとしずくの涙を見られずにすんだ。


 その後は資料館にやってきたKと、なかなか戻ってこないソラを心配した女性店長に見つかるまでふたりは手をつなぎ合っていた。そして喫茶室で、にやにやするふたりの年長者の前でシノとソラはそろって顔を真っ赤にすることになった。

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空が暮れ色に染まるころ 紀乃 @19110

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