神宮の森と居酒屋の明かり
大学からの帰り、シノが自宅最寄りの私鉄の駅で従兄のKと会ったのは偶然だった。
「会社の研修があってな。そこから直帰なんだ」
このあとはシノの自宅近くにある地下鉄の駅に向かうというので、シノはKと私鉄の駅を出た。十一月の夕方は陽の入りが早く、目のまえにある神宮の森は真っ黒で大きな熊が寝そべっているように見える。
「最近、彼女とはどうなってるん?」
「……なんとか、うまくできてると思う」
神宮の森に沿う歩道を、ふたりで並んで歩く。森は暗くて静かだ。しかし自転車と車の四車線道路を挟んだ駅前の商店街は、明るくにぎやかで対照的だ。
Kは歩くのが速いのでシノは速足になるが、それでもKはシノの少しまえを歩いている。従兄はいつも濃いグレーのカジュアルスーツを着て、いまは黒のビジネスコートを合わせている。シノは青いパーカーに黒いダウンジャケットを合わせる自分よりもKが五つ年上であることを、ときどき忘れてしまう。
「このまえはちょっと遠出した。紅葉がきれいな場所で、ソラが写生したい場所だったんだ」
その日はほとんどの時間、紅葉に彩られた山の景色をまえにすごした。白のトレンチコートに青いマフラーを巻いたソラは、息が白くなる寒さも気にしていない様子でスケッチブックに色鉛筆を走らせていた。ソラは写生の最中手持無沙汰だったシノに、「退屈な時間ですみません」と申し訳なさそうにしていた。
シノにしてみれば、少し垂れた青い瞳を真剣にさせて写生に熱中するソラの姿を見られただけでも満足だった。自分で絵を描いてみたいというソラが、はじめて買った画材をトートバックに入れてうれしそうにする
「普通にデートだな、それは」
「そう見える?」
「というより、彼女がアンドロイドだと思えなくなるんだ」
口元がにやけないようにほおに力を入れたシノは、あとのKの言葉が引っかかって立ち止った。どういう意味だときょとんとするシノに、Kは言いにくそうに視線を逸らす。
「……仕事だけじゃなく、趣味を持ってデートも楽しむ。アンドロイドじゃなくて、ほとんど人間だね」
歩行者の邪魔にならないよう、Kとシノはガードレールに寄る。向かいの商店街にはちょうど居酒屋があり、歩道に出した丸椅子や瓶ケースの卓に赤い顔をしたサラリーマンたちが集まっている。
「それはなんか悪いこと?」
Kの物言いに、シノは少し不機嫌になる。悪口のように聞こえたからだ。Kはそんな顔するなと苦笑する。
「だめじゃないよ。けどアンドロイドが人間らしくなったら、人間は人間を作ったことになる。体外受精とか、生物的な過程を経ずに……」
話がだいぶわかりにくくなってきた。シノはKの話を深く理解できる自信がなかった。
「人によっちゃあ、それは禁忌ってやつじゃないかな?」
シノがKの視線に捉えられたとき、神宮の森からカラスの鳴き声が不気味に聞こえてきた。
いつもの市政資料館の喫茶室。シノは上の空で、カフェオレのマグカップを両手で包み込んでいる。このまえのKの話が気になってしまう。
カウンターの中で洗い物をしているソラが洗い物をおえると、足元の収納からスケッチブックを取り出した。
「このまえのスケッチ、いろいろ描き足してみました」
スケッチブックの中は鮮やかな紅のほかに、わずかな木の緑や澄んだ空の青へ細かく濃淡が描き加えられている。
「きれいだな。色鉛筆だけでこんなに描けるんだ」
シノは柔らかいパステルの絵の温かさに、素直に感動して驚いた。
「なんか、個展ができそうだな」
「そんな、まだそんなに上手ではありません。それに……」
思わずシノがつぶやいた言葉に、ソラは苦笑する。例によってほかに客がいない静かな室内で、ソラは洗い物を再開する。
「……これ以上進んだら私はアンドロイドじゃなくなってしまうのではないかと、少し怖いのです」
その静かな言葉は、室内に鮮明に響いた。シノはなにも言わず、マグカップから上がる湯気を眺めた。
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