編み物のお稽古
県の官庁街から少し離れた場所にある市政資料館は、その利用目的のため普段から利用者は少ない。
大学の講義が朝の一限しかない日にシノが資料館に行くと、その日も喫茶室はがらんとしていた。室内は白しっくいの壁と流木のテーブルセットでアレンジされ、公共施設の一部とは思えない温かさと落ちつきを感じる。
「いつものカフェオレですか?」
「うん。お願い」
シノはいつものようにカウンター席に座ると、カウンターの中にいる店番のソラはいつものカフェオレを作りはじめていた。この距離感が、シノにはくすぐったいほど嬉しい。
タブレットで大学の課題に取り組みはじめると、シノは目の端に違和感を感じた。窓際に飾られている油彩画の額が新しくなっていたからだ。窓の外でサクラの木の紅い葉がわさわさと揺れている。
「絵の額、新しくしたんだ?」
「はい。まえの額が古くなったので、新調しました」
まえの額は美術館で見るような金メッキの装飾つきのものだった。いまはシンプルな濃いブラウンの額になっていて、落ちついた喫茶室の雰囲気に合っている。
「このミレーの絵、私好きです」
シノははじめて、ソラの趣味を聞いた。いままでシノとソラの間で交わされてきたのは、とりとめのない雑談ばかりだったからだ。絵を見つめるソラのうれしそうな微笑みに、シノはどきりとした。
「この絵、ミレーって人が描いたの?」
「はい。フランスで活躍した写実主義の画家で、農村の風景を多く描いたことで有名です」
「そうなんだ。ソラはこの絵のどこが好きなの?」
ミレーの油彩画に描かれているのは農民の母娘で、母親が幼い娘に手添えで編み物を教えている。窓からの陽の光が、ふたりをふんわりと包み込んでいる。シノはじっくり絵画鑑賞するような趣味がない。この絵に対しては、なんとなくいい絵だと思えるだけだ。
「絵の雰囲気も、優しくて素敵だと思います」
ソラは顔のまえで拝むように手を合わせ、うっとりと目を閉じる。
「額の窓から日常の風景をのぞき見ているようで、ミレーがどのような気持ちでこの絵を描いたのか想像すると素敵なのです」
ソラは何度も思い描いた風景を思い浮かべる。友人の家を画材を抱えたミレーが訪ねてくる。昼食をごちそうになって、なにげない世間話を楽しむ。そして昼食のあと、農民の母が窓際で幼い娘に編み物を教える風景を描き取る。世間の忙しさに関係なく、農民たちとおなじように自然の営みに沿って生きる。自分のやりたいことをしてすごす毎日。
「ソラは、絵を描いてみたいの?」
「……そうですね、描いてみたいです。しかし私は接客用アンドロイドですから」
大きいマグカップにいれたカフェオレをシノに差し出したソラは微笑んでいるが、いつもより口角が下がっている。シノは湯気が濃いカフェオレを冷ましながらすする。室内は暖房が効いているが、これで体の芯から温まる。
「………だったら、今度休みを合わせて美術館に行かない? 同じ写実主義の展覧会をやってるみたいなんだ」
資料館にくる途中、地下鉄で見たつり広告の内容をシノは覚えていた。
シノが喫茶室に来るとき、いつも店番をしているソラを見ている。マイペースな店長は一体いつ仕事をしているのかわからないが、ソラが好きなときに休みを取っても文句はないはずだ。
「………いいのでしょうか?」
「……いいでしょ。好きなことに熱中しても」
ソラは少しぼうぜんとしたように、少し垂れた青い瞳を丸くしていた。鮮やかな色の瞳の捉えられて、シノは一瞬息が詰まった。
あとに言葉がつづかず、古い柱時計が時間を刻む音だけが大きく聞こえる。デートのお誘いは失敗かと、シノの心拍数は上がってしまう。しかしソラの口角が上がると、安心で息を静かに吐き出す。
「では、いつにしますか?」
ミレーの油彩画を見つめるときと同じ微笑みを、ソラはシノに向けている。
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