空が暮れ色に染まるころ

紀乃

あなたは私に死を与えた

 Kは最近、不思議な夢を見た。


 そこは時計塔が隣接する古い駅のホームで、赤さびた電車が一両とまっていた。ホームに人影はなく、駅の周りは薄いもやで様子がわからなかった。

 電車の中に場面が切り替わった。崩れそうな木製の座席に人が座っていた。丸襟がくたびれたグレーのスウェットと、膝が擦り切れた青いデニムを着た女性だった。長い黒髪には艶なく、身動きひとつせず寂しい光景と同化していた。

 髪の隙間からのぞく黒目がKを捉える。恐怖と嫌悪が全身を駆け巡るが、女性が腕に抱いているものを見て正気が戻る。それは水色のベビー服を着た赤ん坊だった。まだ目が開いておらず、赤い顔は小さい。

 女性は赤ん坊の小さな口に、ゴムのような白色をした細いスポイトを差し込んでいた。とっさにスポイトを手で弾いて赤ん坊を奪い取ったが、赤ん坊に絡みついた細腕は見た目に反して力が強く、バランスを崩したKは女性ともつれ合って倒れ込んだ。

 Kの腹の上ではいずる女性の姿は、ホラー映画に出てくる幽霊のようだった。


 次の場面は時計塔の中だった。窓から入る光で中は明るかった。コンクリートむき出しの内壁に沿って、頂上へらせん階段がつづいていた。

 幽霊さんは静かに丸くなっている赤ん坊を抱いて、普通の母親がそうするように静かに体を揺らしている。やつれてすさんだ見た目に反して、いまの幽霊さんはどこにでもいる母親の姿だった。


「母親らしいことは、もっとなんかできるんじゃないんか?」


 なにげなくつぶやいて、これは悪意ある皮肉にではないかとKは後悔した。幽霊さんの様子をうかがうが、幽霊さんは変わりなく体を揺らしていた。

 気まずくなったKはらせん階段の終着点を見上げる。そこは暗闇で、まるで階段が永遠につづいているように見えた。

 黒い点をぼうっと見上げていたKは、幽霊さんが立ち上がった気配で我に返った。幽霊さんはKの腕に赤ん坊を抱かせ、髪の柔らかい赤ん坊の頭をなでて階段を上がりはじめた。Kが立ち上がると幽霊さんは振り返って、窓からの淡い明りを上半身いっぱいに浴びていた。赤ん坊は身じろぎをはじめた。

 幽霊さんが髪を耳の後ろにかき上げると、笑顔が現れた。その笑顔は安らかで、ほっとするような温かさを胸の内に感じた。

 少し澄んだ声で幽霊さんはつふやいた。


「わたし、母親なのかな?」


「………母親だよ」


 彼女の笑顔に見とれてしまったKは、ぼうぜんと答える。彼女は口元の笑みを深くすると、階段を上がっていった。消えていく彼女を見送っていると、腕の中の赤ん坊は、足をばたつかせてぐずりはじめた。


 赤ん坊が落ち着いてきたころに時計塔の外に出ると、空から紫色の花びらが降ってきた。薄いもやの中、体にまとわりつくのはトリカブトの花びらだった。

 脳裏に彼女のあの笑顔が鮮やかに浮かび、紫色の雨に重なる。急に温かいものが両目にあふれてきた。

 はらはらと流れる涙に気づいたとき、強風が吹きつけてきた。花びらと薄霧を一緒に吹き飛ばす。とっさに胸元に抱え込んだ赤ん坊は、なぜか泣きもしない。

 悪魔の笛のような風のうなりが強さを増して前後左右の感覚がなくなり、そのまま意識は暗転した。



 話しおわったKは、ソラが差し出したコーヒーで渇いた喉を癒す。苦味と酸味のバランスが取れた味わいは、いつも飲んでも飽きない。


「なぜトリカブトの花びらが降ってきたのでしょう?」


「トリカブトには「あなたは私に死を与えた」っていう花言葉があるからじゃないかな」


「それは確かに、不思議ですね……」


 ブラウンの長い髪に少したれた青い瞳の接客用アンドロイドの疑問に答えると、ソラは口元を引きつらせる。そして少したれた青い瞳を、もうすぐ暮れ色に染まる窓に向ける。窓辺には空の、白くて小さな植木鉢が置かれている。


「実はまえに、店長がトリカブトの花を飾ろうとしたことがあります」


「また奇抜なこと考えたね……」


 公共施設である市政資料館の喫茶室を、白しっくいの壁と流木のテーブルセットでアレンジしてしまう店長ならおかしくはない。Kは苦笑してコーヒーをひと口飲む。

 ソラは顔のまえで、拝むように手を合わせる。そしておもしろいことを思い出したと、口元をほころばせる。


「結局、飲食店なので毒のある花はやめにしました。でも花屋さんの方から、トリカブトは女神ヘカテーの象徴だということをうかがいました」


「ヘカテー?」


「「死の女神」とか「女魔術師の保護者」などという別名がある、ギリシャ神話の女神です。でも怖いだけではなくて、出産など生命の創造を司る女神だと言われたようです」


「だとすると、幽霊さんとおなじでヘカテーも母親なのかもね」


 Kがまたコーヒーをひと口飲むと、洗い物を再開しているソラは同感した。


「だから幽霊さんは、笑っていたのですね」


「……そういうことだね。ほんと、小説みたいな夢だ」


 Kがまたコーヒーを飲んだとき、資料館が裁判所として使われていた時代から現役の柱時計が音を鳴らす。時間は閉館の三十分前、もうすぐ日の入りだ。

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