「やあ、今宵も月が綺麗だね。そんな思いつめた顔をしてどうしたんだい」

 夕餉ものどを通らず、考えがまとまらないまま夜を迎えてしまった。

「マーシェ、実はっ、内陸国の、ご息女との婚約が、あって……」

 話すうちに、たまらなくなってしまい嗚咽交じりで告げた。

「ブラウト、君は本当にそれでいいと思っているのかい。なんだか納得していないような顔だ」

 そうだ、そのとおりだった。ずっと、ずっと一緒にいたい。でもこれはただの我儘でしかない。こんなこと、言えない。そう思っていると、強く抱きしめられた。マーシェの低い体温が、僕の熱で温かくなっていく。別れる悲しみと、優しさに包まれる安堵とが綯い交ぜになって、とめどなく流れていく涙を止めることができなかった。

「願いがあるのなら言っていいんだよ。きっとそれは私と同じ気持ちだから」

 腰に回された腕はそのままに、目線を合わせられた。柔らかく微笑まれると弱い。すべてを許されてしまう、そんな気がして。胸の内を零してしまった。

「ずっと、マーシェと一緒にいたい。叶わないのなら、いっそ死んでしまいたいよ」

 マーシェの唇と僕の唇が重なった。

 鉄の味がした。

 思いがけない行動と、咥内に伝わる血の味に困惑するばかりだった。

「マーシェ、血が――」

「いいから、ね」

 細かく何度も口付けられる。その心地よさに流されそうになりながらも、なんとかマーシェを引き剥がした。

「突然どうしたの。血も出ているじゃないか!」

 まっすぐにマーシェを見つめて問うた。キスを止めたといっても、まだ身体は密着していて、またすぐにでも触れ合えそうな距離だった。

「私もブラウトと同じ気持ちだったからさ。そんなに驚かないで、私の眼をみて」

 深い海のようで何度見ても美しい。その瞳に己が映る幸福。

「ブラウト、私と共にいたいのだろう」

「うん……」

 溺れる、そんな感覚だった。

「大丈夫、怖くない、私は平気だから、ね」

 例えば、乾ききった喉を潤す水。例えば、泣き疲れた後の温かい毛布。

「私の血肉を喰んでごらん」

 吸い込まれそうな眼差しで懇願され、その誘惑に目眩がした。

 そして、注がれる血を、舌を――貪っていた。

 今思うと、なんという行為だったのだろうと思う。その時の不思議な感覚は今でも覚えている。

 マーシェを傷つけるなんてしたくはない。

 けれど、何かに突き動かされるようにマーシェの血を、肉を求めていた。

 まるで、ずっと望んでいたことだったかのように。


「ブラウト、口元に血がまだ残っているよ」

 少し落ち着いたところで、唇の端を舐められると途端に照れてしまった。

「ふふっ、初心だね。そんなところが可愛らしいのだけど」

 先ほどまでの妖艶さは何だったのかというほどの無邪気な笑みに、なんとも言いがたいときめきを覚えた。

「ブラウト、君が家庭のことで苦しむのなら、海の世界で私の伴侶になればいいよ」

 もう、突然の出来事が続きすぎて、考えが追いつかなかった。

「え、いや、伴侶、でいいの? 僕が?」

「君がいいんだよ」

「海の中では生きられないのにどうやって?」

「私の血肉を飲み込んだだろう。事後承諾、という形にはなるが海中でも生活できるような身体になっているはずさ」

「え? そ、それに、僕だけの問題じゃないし、こんな簡単に、いいの?」

「そこは、ブラウト、君がどう生きたいかだよ。それに、私が嫌だ」

 でも、だって、それに。

 混乱すればするほど卑屈になって否定の言葉ばかり呟く僕を、少し強引にでも導いてくれるマーシェの存在がありがたかった。

「ほら、行こう。君はもう自由だ」

 波打つ水面へ強引に引き込まれ、息を止めもがくけれど、ぐんぐん進んで行きもう死ぬのかと思った時だった。

「ゆっくり息を吸うようにしてごらん、大丈夫だから」

 それは不思議な感覚だった。水を肺いっぱいに吸い込み吐き出す。海水が空気のようだった。

「息が、できる」

「だろう」

 自信ありげに言うマーシェの顔は、悪戯が成功した子供のようで、愛らしかった。

「これで私たちは離れずにいられる。『かけおち』さ」

「すごいね、マーシェは。もうどこへだって行けそうな気がしてきたよ」

 余談だが、人魚は生涯に一度だけ、血肉を体内に取り込ませることで、相手を不老不死に変えることができることを教えてもらった。

 そうすることで、寿命の異なる他の生物と添い遂げるのだという。

 そんなものを私に捧げてしまってよかったのかとそれを問い詰めた事もあった。

 その際は、問題はそこではなく承諾もなしに身体を作り替えた事(こと)ではないのか、とマーシェに笑われたが、なんと言えばいいのか。

 そう、マーシェにされることなら特に問題はないように思えたのだ。

 マーシェに会えずにいたら、死ぬか、もしくは死んだように生きるしかなかっただろうから。

 僕たちは世界中の海を旅してまわった。

 時折、他の人魚や魚たちとの交流を楽しみ、人間の様子を観察しに陸に近づくなどして何年も過ごした。

 僕の生きていた世界はどれだけ狭かったのかを思い知らされた。

「広い世界を見せてあげる。きっと楽しいよ。それに、もう自由なんだって実感できるだろう」

 そう言ってマーシェは笑う。

 しかし僕は、何も言わずに出てきてしまったことへの、後悔の念に苛まれることになった。

「マーシェ、僕はどうすればよかったのだろう。最近夢に見る、突然息子が消えて婚約を破棄することになった父上の立場はどうなってしまったのだろう、ほとんど話さずにいた母上や弟はどう思ったのだろうと」

 マーシェは僕の頭を優しくなでると、一度故郷に帰ってみようかと、提案してくれた。

 久々に見る港はますます栄えていたようで、全く知らない町になっていた。

 大きな船が何隻も泊まり、見たこともない物や人で溢れかえっていた。

 遠くに見えるあの男性は弟だろうか。

 あちこちに指示をだし、民衆に慕われているようだった。

 幼い頃の面影はあるものの、髭をたくわえ、悠然と構える様は、見るからに良好そうな領主様そのものだった。

 一見、何もかも見ちがえた故郷だが、唯一変わらないものもあった。

 マーシェに初めて出会い、会うために通った、城の裏庭に続く、海辺の岩陰。

 入りくみ船をつけづらいそこは手つかずで、まるで時間の波に置いていかれた、僕のようだった。

 この港町の世界には僕なんて必要がなかったのだと、理解した。

 いなくなったとしても発展はできる、悲しむ人もいない。

 マーシェの隣が僕の居場所なのだと改めて感じ、自分の中でようやく整理がついた。

 ただ、呆然とする僕が辛そうに見えたようで。

「ごめん、ごめんね。でも、ブラウトには私がいるから。人間として生きられなかった分、いやそれ以上に幸せにしてみせるから」

 後ろから強く抱きしめられながら、僕はこんなに幸せなことはあるのだろうかと考えていた。

 陸の世界で僕は不要だったけれど、こんなにも素晴らしい人と海の世界で生きることができるのだから。

 振り向くと、見たこともないほど苦しそうなマーシェがいた。

 もう充分幸せだ。連れ出してくれてありがとう。

 息が詰まってうまく言葉が紡げない。

 だから、強く抱きしめ返した。

 その後も長い間旅をしていたが、マーシェの住んでいた国の外れにある小さな新居に落ち着くことになった。

 そこで知ったのだが、マーシェの父はその国の王だったのだ。

 マーシェは心配することはないさ、とあっけらかんと言うが、僕は心配で心配で仕方がなかった。

 陸の人を伴侶に選ぶなんて、と殺される覚悟で対面したが、珍しくマーシェが叱られている姿を見ることになるだけだった。

 なんでも、婚姻の義をとり行うのだから、もっと早く伝えておけ、との事だった。『かけおちだ』、と言って出てきたのだから、まさかこんな祝福を受けるとは思わず、予想外の出来事に驚いた。

 なんでも、マーシェの奔放で意志の強い性格は、骨身に沁みているのだそうだ。

 過去になにをしでかしたのか詳しく聞きたかったが、マーシェがやめてほしそうだったので聞かずにいた。

 いつか自分から教えてくれる日が来ると良い。

 どれだけ知ってもまだ足りない。

 もっと知りたい、そんな風に思わせてくれるのは、マーシェだけだった。 

 長い、長い時を過ごしてきた。マーシェと共に。

 出会ってからもう二〇〇年余りが流れていた。

 昔は頻繁に旅に出ていたが、最近は遠出する機会も減ってきた。

 日がな一日眠るマーシェの側で、記憶を思い返す日々が続いている。

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