次の満月の夜。

 本当にまた会えるのか、夢ではなかったのか、と不安に思いながら夕餉のあとすぐに海辺へ向かった。

 白んだ月が東側から顔を出す頃、マーシェは現れた。

 はじめはうまく話せず、会話が続かないことを悩むこともあったが、マーシェはそんな僕を見て微笑んでくれた。

 そのうち少しずつ、家庭の話をした。生まれてすぐに母が死んだこと。

 不出来なうえに、愛のない婚姻で生まれたために父に疎まれていること。

 継母や弟と上手に接せないこと。

 今となっては遠い過去のことになっているが、幼い僕は毎日の稽古や、手習いがうまくいかないことが苦痛で仕方がなかった。

 そうして情けない僕の相談を聞き、温かく励ましてくれるマーシェの優しさに甘えてばかりだった。

 他にも話は尽きず、陸での生活や文化のこと。

 海の世界のこと。二人で話す時間は短くて、水が流れるように過ぎていった。


 あれは出会ってから数年たった日のことだろうか。

 ずっと気になっていたこと問うた。

「実は、ずっと聞きたかったことがあったんだ」

 この頃にはだいぶ言葉もくだけてきたように思う。

「どうぞ、王子様」

 そういえば、幼い頃はよく『王子様』と呼びかけられていた。

 そう呼びかけられなくなったのは、いつ頃だっただろうか。

「マーシェはなんでこんな寂しい海辺にいたの」

 疑問には思っていたが、なんとなく聞かない方が良い気がしていたことだった。

「はじめから僕を知っていたみたいだけど、もしかしてなにかこの海辺に用事があったりしたの?」

「気がついてしまった、というより聞く決心がついた、ということかな」

 普段と違う、妖艶な笑みを浮かべるマーシェに、やはり聞かないほうが良かったのではないかと後悔した。 

「実はね、ずっとある男を探していたんだ。深海の魔女に対価まで払って聞いたりもして。でも、会えなかった」

「なぜ?」

「男は死んでいたんだ。とっくの昔に。陸と海では生きる時間が違ったんだ」

 どこか遠くを見るような、マーシェの強い瞳が怖かった。

 マーシェの存在が遠く感じられて、視線の先に消えていってしまいそうで。

 それまで優しくて温かい表情しか見たことがなかったから。

 勇気を振り絞ってマーシェを抱きしめた。

 子供がすがるような、格好のつかないものだったと思う。

「聞かれたくないことだったよね。ごめんなさい。消えないで」

 それが、そのときの僕にできる精一杯だった。

「ありがとう」

 弱い声だった。そう言って頭を撫でられた。

 繊細な指先で撫でられるのが、心地よくて、同時に照れくさかったことを良く憶えている。

 その後、この件については聞かないようにしている。

 どんな思いでその人を追っていたのかなんて、知りたくなかった。

 苦しそうな表情は見たくなかった。

 そうして十年の月日が経とうかという時たった。

 僕は十七歳、成人と認められ、早い者では結婚も考えられる齢であった。

「申し訳ありません。父上の命でも、そればかりはご容赦ください」

 人生で初めて父に逆らった。

「まさか、この地の領主を継ぎたいと言うのではあるまいな」

「めっそうもございません。私には、大切な、人が、います。ですから、この地を離れたくありません。その、望まない婚姻に意味はない、父上にはわかるのではありませんか」

 父上が苛立つのが肌で感じられた。けれどこれだけは譲りたくなかった。

 突然マーシェと離される、なんて考えられなかった。

 このときに、マーシェへの想いがそれほどまでに大きくなっていることに気がついた。

「すでに先方との話は進んでいる。来月、それまでに考え直せ」

 それだけ言われ、僕は部屋に帰された。

 幸い今晩は満月、マーシェに会える日だ。

 このまま自分も海に消えてしまいたい、息ができず死んでしまってもいい。

 そんなことすら思ってしまう。きっともう会えなくなる、と告げるのが正解だろう。

 冷静になって考えると、はじめから寿命の違う僕たちはいつか別れる時が来る。

 それが少し早くなっただけ。

 人魚であるマーシェの長い生の中で僕は、ほんの一瞬であっただけの存在なのだから。

 僕が一方的に、想い続けることは、できるのだから。

 それが、誰にも迷惑をかけない、最善の選択。でも……僕は……。

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