アクアマリンの涙

字書きHEAVEN

Op

 水面から降りそそぐ光で目が覚めた。

 隣で眠る愛しい人は、まだ夢の中のようだった。

 出会った頃と変わらぬ美しさを纏う人を眺めていると昔を思い出す。

 あれからどれだけの季節を繰り返してきたことだろうか。

 ただの人間でしかなかった自分がこうして陸を離れ暮らしているのは、この人が人魚であったからだ。


 あれは十になろうかという頃。くっきりとした輪郭の満月が浮かぶ夜。

 岩陰でひっそりと歌う姿は、月から舞い降りた女神のようだった。

 幼い頃から度々日暮れに城を抜け出し、海辺で独り佇んでいた僕は夢でも見ているのかと思った。特に、その日は叱られ泣いていたから。

「きれい……」

 先ほどまで流れていた涙は失せ、月光に照らされたシルエットに惹き寄せられていた。

 月明りを反射する白銀の髪、長く伏せられたまつ毛に縁どられた深い蒼の瞳、たおやかに歌を紡ぐ艶やかで上品な口元、やわらかな薄絹に包まれた初霜のような白い肌、ほっそりとした肢体。今思えば一目惚れだったのだろう。

「それ以上来てはいけないよ」 


 その声で己が海に浸かっていたことに気がついた。

 呆然としていると僕をよそに、その人は優雅に尾ひれをつかい近づいてきたのだった。

「君を思って歌ったのだけど、少し惹き寄せすぎてしまったようだね。はじめまして王子様」

「め、女神様、ですか?」

 他にも言いたいことはあったはずなのに、口をついて出たのはそんな言葉だった。

 絵物語で夢見た、己を救い出してくれる存在が現れたのだと思った。

 実際に今、この出会いによって穏やかな生活を送れているのだから、あながち間違いでもなかったのかもしれない。

「ありがとう。だが、私はそんな大層なものじゃないさ」

 軽快に笑い、陸の人からは人魚やセイレーンとよばれる、いわばモンスターさ。と、説明されたが、町の船乗りたちが恐れ噂する怪物には見えなかった。その美しさは。

「なら、人魚姫様ですね」

 ちょうど、陸に焦がれ悲しい恋をする人魚姫の物語をよんだところだった。

 僕はあの王子様が羨ましかった。

 生きる世界の隔たりを恐れず、『愛』を与えられることが。

 そのうえ周囲からも愛される贅沢が。

 同じように海辺の王子という立場なのに、こうも違うのかと。

「貴女は、なぜ、僕を思って歌ってくださったのですか」

 思いを巡らせながらそう尋ねてみた。

 人魚姫という言葉に少し瞳を動かした後、薄く笑った表情に鼓動が早くなるのを感じた。

「人魚姫、ね。かの有名な物語の姫は、伯母上だからあってはいる、かな。私の名前はマーシェ。気軽に呼んでくれないかい。理由は――そうだな、泣いている可愛い子の涙をとめたいと思うのは当然だからね」

「マーシェさん、僕なんかのために……」

「僕なんか、なんて言ってはいけないよ」

 ひんやりとした指先を唇に押し当てられ、躰が芯から熱くなるのを感じた。

「こうして私が可愛いと思ったんだから、君は可愛いんだよ。そんなことより、君の名前を教えてほしいな」

 美しい人は心まで美しいのだろうか。

 深い蒼の瞳に微笑みかけられると、すべてが何でもないことのように思えてくる。

 そんな思いに今でも駆られることがある。

「僕はブラウト、ブラウト・フォン・リベリード」

「よろしく、ブラウト。名前が聞けて嬉しいよ。夜も更けてきたけれど、帰らなくていいのかい?」

 月が、南の空から見下ろしていた。

 時間は、気がつかぬうちに過ぎていたようだった。

 けれど、このままいつ会えるかわからずに別れるのは寂しくて。

「また、いつか、会えますか?」

 こんなことを人に請うのは初めてだった。

「突然すみません。我儘なのはわかっています」

「我儘なんかじゃないさ。私もまた会いたいと思っていた。そうだな、また次の満月の日に、なんてどうだろう」

 ふわり、と揺らされた銀糸に目を奪われ、首を上下に動かすことしかできなかった。

 その後のことはよく憶えていない。

 気がついた時には、自室のベッドで朝を迎えていた。

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