第2話 川べり


冬なのに上着の下に汗が流れるのを感じた。

岸に沿って下流へと向かう。

上流方向へは橋脚が邪魔をして進めないのだ。

記憶では上流の対岸側には楽に登れそうな箇所があった気がするが、この寒空に川を渡る勇気はなかった。

岸沿いを進むが、河原は岩や崖ばかりで、時おり雑木が密集しており登れそうな所は見つからなかった。

汗をかきながら足場の悪い瓦礫に辟易している時だった。

ふと見上げた先に人影が見えた。

この上は地元民が使う、川を見下ろす散歩道なのだ。

そこを買い物帰りの主婦が歩いているのが辛うじて見えた。

川に落ちて出られないという状況に少し恥ずかしさはあったものの、これで登れるかもしれないと安堵を感じた。

どうやって声をかけようかと思案した瞬間、急に水のせせらぎが耳についた。


ザワザワと流れる音が一度気になると、耳から離れない。

やがて川のせせらぎの音はザブザブとなり、いつしかゴウゴウと唸りをあげているようになていた。

この騒音の中では小さな声では上まで届かないかもしれない。


水音に負けないように大声を張り上げて呼び掛けたが、しかし主婦は気づかないで去っていってしまった。


主婦が見えなくなると、自分がそれほど大声を出していなかった事に気付いた。

いい大人が、たかが川に落ちただけで、助けてくれとか言うことに照れがあった。

水音だってそれほど大きくはない。

ただ、ザワザワと流れているだけだった。


助けてくれるかもしれない人が居なくなると急激に焦燥感が沸き上がってきた。

もしかしたら千載一遇のチャンスを恥ずかしいというだけで逃してしまったのではないだろうか。

辺りを見回すがもう人影はない。

どこかで鳥のさえずりが聞こえるだけだ。

もう少し川下へ行けば次の橋がある。

その橋の近くには総合病院があり、人通りも少しはあるはずだった。

その橋の周囲は岩場で登れるかどうかはわからなかったが、とにかく人がいれば何とかなる気がした。

川沿いは岩と雑木と流木などで非常に歩きにくい。

そのため常に下を向き足元を確認しながら進む事になる。

進路を塞ぐ岩によじ登り、挫かないように注意しながら次の足場へ移動する。

そんなことを繰り返し、息を切らせながらもうずいぶんと進んだと思って顔をあげても、ちっとも進んでいないのだ。


ただ、ざわざわと川音だけが辺りを支配している。


ざわざわ。

ざわざわ。

ざわざわ。


まるで人の話し声のようではないか。


ざわざわ。

ざわざわ。

ざわざわ。


実に人の話し声のように聞こえる。


ざわざわ。

ざわざわ。

ざわざわ。


もしかして本当に人がいるのではないか。


今、川を背にして立っているが、振り返れば大勢が居るのではないだろうか。


今や、川音はせせらぎでは無く、街の騒音にしか思えなくなっている。

人いきれさえ感じる。

それが有り得ない事であるのは百も承知なのだが、その自分の常識が信用できなくなっている。

今、感じている感覚が理性を上書きしていく。

背中に通行人の肩が触れたような錯覚さえする。

先程まであれほど探していた人影なのに、今は振り返って確認する勇気がない。

それどころか一歩も動けない。

もし目立つ動きをして、後ろにいるモノ達に自分の存在が気付か

れてしまったらどうなるのだろうか。

息を殺して、微動だにせず立っているだけで精一杯。

この寒空のもとで、汗が頬を伝うのを感じた。


どのくらい経ったのだろうか。


どこかで野鳥の鳴き声が聞こえた。

その声はそれほど大きくはないが、川を貫くように響き、呪縛を解き放った。


川のせせらぎは サラサラと流れるだけになってた。

目を開け、振り返るといつもの散歩コースから見慣れた景色が広がっている。


あの現象はなんだったのか。

いや、現実の事ではなく、もしかしたら眠っていたのかもしれない。

鳥の声を聞いた後、目を開いたのを覚えている。

つまりそれまで目をつむっていたのだ。

それにどうもその時の記憶が曖昧だ。

本当にあの騒音を聞いたのだろうか。

人いきれを感じたのだろうか。

不安に駆られた心の弱さがみせた幻だったのではないだろうか。

普段慣れない運動をしたせいで、立ったまま、うつらうつらとしていたのかもしれない。


すべてはあの看板が悪いのだ。

あの禍々しい看板が。

よくよく考えたらあの看板には「このかわはでれません」と書いてあった。


厳密に言えば自分は川に入ったと呼べるだろうか。

否。

川縁にはいるが、まだ川には入っていない。

川とはあくまで水が流れている部分を指すのだ。

まだ水には爪先さえ入っていない。


自分の中で、それは詭弁だという声がするのを無理矢理押さえつけて、そうだ、まだ川には入っていない。

出れないはずなどないのだと言い聞かせる。

もはや誰に弁明しているのかわからないが、必死で自分なりの解釈を構築し口走っていた。


そうやって独り言を呟きながらまた川沿いを下り始めた。

とりあえず総合病院の近くまで行けば人が居るはずなのだ。

今は人に会うことだけが重要でそれ以外はどうでもいいのだ。

立ち止まっていた間に冷えた身体がまた汗ばむほどになってきた。


大きな岩が少なくなり、少し歩きやすくなってきたが、雑木がうっそうとして川と日常を分けているのは変わらなかった。


雑木の向こうにはいつの間にか竹藪が見える。

その為視界が大きく阻害されている。

まさにあの世とこの世を区切っているような、邪悪さを感じる竹藪だった。

もし竹藪が世界を分ける壁なのだとしたら、竹の向こう側はあの世になるのだろうか。

否。

彼方が日常なのだから、此方側があの世なのだ。

この川は黄泉へと続く川なのかもしれない。

そういえば三途の川もレテの川も、常世と現世の間に存在するではないか。

あの世とこの世を隔てているのは川なのだ。

川が境界線であるのなら、対岸はあの世で、竹藪と川に挟まれたこの川縁はなんなのだろうか。

そう考えると、なおさら川には入れない。


にわかに風が強くなり、竹藪がざわついた。

水とは趣が違うがやはりざわざわと人が囁くように聞こえる。

竹と竹がぶつかるカンカン、ギシギシ、カコカコという音も耳に響く。

飼っている犬もこの音に敏感であった。

風の強い日は神経質に吠えたものだ。


そうだった。

あの日もこんな感じで強い風が急に吹く日だった。

風が吹き、竹藪が耳障りな音をたて初めて、散歩中だった愛犬が吠え出したのだ。

ただでさえわがままで言うことを聞かないのだが、その時はパニックになったように暴れだしたのだ。

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