第3話 カヌー
川の上流から何かが流れてくるのが見えた。
カヌーだ。
カヌーには二人の男が乗っていた。
男たちはこちらを見ている。
いや、凝視しているといっても過言ではない。
二人はこちらを見て何事かを囁き合っている様に見えるが、声は聞こえてこない。
唇は動いているようには見えないので思い過ごしかもしれない。
やがて男たちはこちらに向けて無言のまま、手をさし延ばし始めた。
二人は懸命に手を伸ばしている。
しかし、その顔からは表情を読み取ることができない。
こちらも手を伸ばそうと思うが、もう少しで手が届くというときに、もしかしてこれは私を川に引き込む罠なのではないかという気がしてくる。
見方によっては私と同じでこの『あぶないかわ』
に取り込まれて助けを求めている人なのかもしれない。
現に助けを求めて手を伸ばしているではないか。
しかし、男たちの表情に変化はない。
いや、近づくにつれて心なしか笑っているようにも見える。
罠に落ちる者をにやにやと嘲笑いながら見下しているようにも見える。
二人は手を伸ばしてはいるが、カヌーから身を乗り出すほどではない。
顔からも姿勢からも必至さが感じられないのだ。
だが、身を乗り出していないのはわかる気もする。
バランスを崩して川に入ってしまう事が怖いのだ。
私もそうだ。
声を出したくない。
声を出すことで川に潜む『なにか』
に自分の存在を気づかれてしまうかもしれないのだ。
もしかしたらもう気づかれているかもしれない。
しかしそうはなっていない可能性がある限り、危険を冒すことはできない。
助けるべきか否か。
いや、なぜ私がカヌーの男たちを助ける必要があるのか。
むしろ私が助けてほしいのだ。
カヌーの二人は私を助けてくれる存在かもしれない。
カヌーに乗り込み、下流に進めばこの川岸から出られる場所があるかもしれないではないか。
手を出すべきだ。
手を伸ばせばぎりぎり届く。
ただし、手を届かせようとすると、身体を川の方へと乗り出す必要がある。
もし、カヌーを引き寄せようとして失敗すれば川に身を投げ出してしまう事になる。
川に入ってしまうのだ。
それだけは避けなければならない。
カヌーの二人もそれを避けるために手は差し出すが、姿勢は崩していない。
それが本気で助けてほしそうに見えない理由かもしれない。
目の前をカヌーが通過してゆく。
二人の男はどちらも無表情のまま私を見つめている。
私も二人を見つめている。
互いに手を中途半端に差し出しあいながら、その手と手の間には超えられない大きな壁が存在していた。
いったい私はどんな貌をして二人を見ているのであろうか。
汗が流れ落ちるのがわかる。
二人は私の前を通り過ぎ、無力に川を流れてゆく。
二人は姿勢を崩さぬよう細心の注意を払いながら、それでも首を可能な限り後ろに向けて私を見つめている。
二人の顔に初めて変化が見えた。
それは悲しみなのか嘲りなのか、それとも別の表情なのか私には判断できなかった。
二人はただ川を流れて行った。
私はカヌーを追おうともせずにただ茫然と見ているだけだった。
半端に差し出した手はいつまでもその空間に残っていた。
カヌーはやってきた時はゆっくりと流れてきたが、私を通り過ぎた後はあっという間に視界の外へと消えて行った。
川の流れが速いのではない。
川は上流も下流も同じように滔々と流れているだけである。
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