第2話 菜の花

「ちょっと!そこのブロッコリー取ってくれる!」


 真後ろから蹴られたような大声で、戦場の主婦はレジに並びながら、私に命令した。

 突然の事で、肩が跳ね上がり、左目を反射的に強く閉じた。


「あ、はい。どうぞ、ありがとうございます!」


 ブロッコリーの裏にあいつが居ないか確認してから、疲れがにじみ出ないように、作られた笑顔でブロッコリーを渡した。

(ブロッコリーか……。とにかく、また裏から新しいのを足さないと)


 腎臓の死を告げられる平成二十四年、十二月一日から、十ヶ月前、ニ月の事だ。

 新しい年を迎えた事など忘れた、見知らぬ街は、すでに調子の悪い私の吐く息を、空へと連れて行った。


 私はバイトから正社員になった八百屋の店員だった。他店舗で正社員になり、一年程経ってから、この新店舗の四人のメンバーに選抜されてしまった。常に商品を忙しく出し続ける、少し異常な八百屋だった。


 今日は新店舗オープンの日で、私達は前日から歩いて出勤出来る、ビジネスホテルに泊まっていた。オープン記念のセールでお客さんが山の様に来るらしい、それだけ大量に野菜や果物を、綺麗に出し続けなければいけない。

 結果は昼ご飯も休憩も無かった、それも普通なのが私達の仕事だった。


 朝が苦手な私は、遅刻したら殺される思いで必死に起きて、まだ薄暗い街を抜け、暗い気持ちで出勤し、関西の本社から応援に来ている恐い人達を横目に、ブロッコリーを出し続けていた。

 お客様にブロッコリーを渡し、騒がしい店内から、商品を運ぶトラックの搬入口がある、バックヤードに逃げた。


 そこは、道路と繋がっていて、大きなトラックが、三台後ろ向きに止まっている。トラックの間から見える空が、白く遠い存在に感じた。


 野菜の色々な箱が、コンクリートの地面に置かれたり、緑色の車輪の付いた四角い檻に入れられて、出されるのを待っている。


 業務用冷蔵庫の中は野菜達の箱を入れると、エレベーターくらいの広さしか残らず、そこにサブマネージャーが閉じ込めてきて……


 「なはは、びっくりしたか!」


 なんて、いじられる日が来るのは、何ヶ月も後の事だった。


 今はただ、冷蔵庫から溢れ出たり、入る気もない野菜達を、無心に出し続けるしかないのだ。


 店長よりえらいサブマネージャー達は、関西の人が多く、怒ると恐いのだ。とても手で作った銃で撃つなんて、出来ない存在だった。


 トラックの隅で寂しそうに立っている自動販売機、その横にある錆び始めた鉄パイプの椅子は、誰も座る事がない。マラソンランナーのように、社員達はそこで立ったまま飲み尽くし、走り出すのだ。

 

「ブロッコリー出しますね!」

「おう、頼んだ。はは、すごいお客さんの量だな」


 店長はそう言い残して、バックヤードから野菜売り場へと戻っていった。


 その新しい店長の名前を覚える暇もなく、ブロッコリーの入る発泡スチロールに手を伸ばした。

 両手で何とか抱えられる大きさの箱、高さはブロッコリーを立てたくらいで、生き生きとした緑色が氷の中で十五程、気持ち良さそうに眠っている。


 温度が上がってしまうと、ブロッコリーの呼吸が活発になり、花を咲かそうと頭から黄色くなる、そして黄色く綺麗な、菜の花を咲かせる。


 アブラナ科の花は、どれも黄色で似通っている事から総称として、菜の花と呼ばれている。

 アブラナ科の野菜というと、ブロッコリー・大根・白菜・小松菜など沢山あり、大根は白い菜の花を咲かせる。


 シラスが、イワシ・ウナギ・アユなどの、体に色素が無い白い稚魚の総称であるのと、似ているかもしれない。

私達がスーパーで野菜として売り場に出す菜の花は、アブラナという野菜で、元々は西アジアから北ヨーロッパの大麦畑に生えていた雑草らしい。その種はナタネと呼ばれて油になる。

 

(いつかテレビで見た、河川敷。桜の下に黄色い菜の花が広がる、そんな様な天国に、私もいつか行くのだろうか……)


 そんな現実逃避をしていると、トラックの間から打ち付ける風は、氷の中からブロッコリーを出す事になる私を、簡単に現実に連れ戻した。


 ブロッコリーの箱を、L字の台車に肩の高さまで積み上げ、三十キロ以上はあるだろう、その白い巨塔を押して、店長より遠慮ぎみに店内へと戻った。


 スーパー内に独立した私の所属する八百屋は、関西に本社があり、京野菜も取り揃えていて、とにかく綺麗に量を並べる。

 ブロッコリーならピサの斜塔の様に、斜めに積み上げる事すら許されない。


 綺麗に規則正しく整列された野菜達を、お客様は我先にとカゴへ投げ入れていく。


 昼ご飯も食べず休憩も取らず、ただ兵隊である私達は、関西弁の恐ろしい上官を怒らせないよう、完璧に戦場を維持しないといけない。

 

(ブロッコリーが売り場に全く出ていない、そんな事になったら……。全く恐ろしい)


(ん……?)


 箱を開け、いよいよ咲く事のない花道を飾ろうと、指先が棒になりそうな氷河期から、ブロッコリーを持ち上げると……

他にも氷に眠っている、あいつがいた。


(やっぱりいたか……)


 イモムシだ。茶色い小指程の大きさの。


 何回見ても目を細めてしまう、お前が蝶になったり蛾になって、羽ばたく事が出来なかった事など、悪いが知った事ではない。

 お客様は花も咲かない虫も居ない、そんな当たり前のブロッコリーを求めて。来てくれているのだ。


 時計を見る暇もなく閉店時間となり、何とか初日を乗り切った。その時は自分が病気などという発想すら無かった、ただ激務の疲れだろうと。

 その開店セールが落ち着くと同じ事の繰り返しだ。ただ朝早くから夜遅くまで必死に働いた。


 帰り道、改札内のコンビニで、おにぎりを二つ買い、空腹で電車を待ってる間に食べる。それだけしか食べていない一日もあった。

 ただ何も考えず肩を落として、下を向きながら実家に帰り、入浴中に、日付けが変わる生活を繰り返した。

 出勤する時は信号待ちで、下を向き、このまま前に倒れたら楽になれるのに。そう思う事も日に日に増えていった。

 いらっしゃいませ。という言葉を大きく言えなくなり、やる気ないのかと、注意された事もあった。


 果物を試食用に切るための小部屋で、破れて商品にならない巨峰を口に入れた。

 その瞬間にサブマネージャーが入ってきて、ごまかしながら飲み込み、危うく窒息しかけたマヌケな事もあった。


「何か食べてたか?」

「え、あ、え」

「ん?」

「はへてませんよ、しつへいします、うゔ」

とっさに背を向けて、息が出来ないまま答えたのも、何だか懐かしく愛おしい。


 私は厳しくて、鬼の様なサブマネージャーが嫌いではなかった、芯が通っているような、仕事に対する熱意と、謙虚さがあった。

 彼は、うっかり高価な、まん丸な瓶のオレンジジュースを、ケースごと落として大量に割ってしまった事があった。高い位置に置いていた店長が謝ると、私は、店長が怒られるのだろうと恐る恐る見守っていた。ところが。


「ごめんなあ」

「いえいえ!そんな、とんでもない!ほら、雑巾持ってきてくれるか」


 私は店長に言われた通りに、雑巾を取りに行き、ちゃんと謝れる大人はかっこいいなと、彼と店長と一緒に片付けながら思った。

 しょんぼりと肩を落としながら溜め息を吐く彼は、誰にも怒られない故の罪悪感もあったのかもしれない。自分は皆の間違いを怒らなければいけないのに。


 怒ると静かなトーンでの関西弁は命の危険を感じる程だが、閉店後、裏で普段の固いイメージには無い冗談を言ってくれたりして、肩の力を抜いてくれた事もあった。

 今思い返せば、腎臓の調子が本格的に悪くなるにつれて、暗くなった私を思っての優しさだったのだろう。

 彼が辞めそうな人達を、散々見てきたからかもしれない。気遣い出来る人は他人の変化に鋭いものだ。


 私も仕事で、部下やバイトの子達に、謙虚さを忘れないようにいようと、誰にでも敬語で接するようにしていた。

 そんな思い出が懐かしく感じる……


 私の腎臓は死んでいたのだ。


 これからそれを、店長に伝えなければいけない。

 あれだけ嫌だった出勤で通る道、そのまま倒れたくなった信号待ち、何だか最後かもしれないと思うと、落ち着かない気持ちだった。


 まだ無知な私は、腎臓が死んで入院する必要があるショックよりも、断然、きつい仕事を辞めれるかもしれないという、希望すら感じていた。


 辛すぎて夜逃げした上司もいた程だ、よっぽどの理由が無ければ、辞めたいと相談するより、辛いまま働くか、いっそこの世を諦める方が、楽な事に感じてしまう。

 ブラック企業は、そんな狂った命の天秤が作られてしまうのだろう。


 そして、誰かが辞めるというより、来なくなった場合、人員は補充されないのだ。定員でもフルタイムで人が足りてないのに、より現場の職員は仕事量が増えるのだ。


 私も過去に夜逃げしてしまった上司の分まで働いたから分かる、店長が見つけたら殴る。と真顔で言うのも仕方がないくらい忙しかった。


 でも、いざ、自分が病気になるまで頑張りすぎてしまった今となっては、死ぬくらいなら逃げるという上司の判断は、とても間違っているとは思えなかった。


(何が間違っているのだろう……)


 そう思いながら、私は事情を説明出来ずに普通に二日働いた。

 退職できる嬉しさもあったが、不思議と寂しさもあったのだろう。私のせいで、これから忙しくなる同僚を、容易に想像出来る後ろめたさも大きかった。

 

(このままだと心配している君に、申し訳ないよね……。うん閉店したら伝えよう)


 お店がオープンしてから十ヶ月経った十二月。あの日の様に寒い中、私は最後の咲かない菜の花を運んだ。

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