死んだ腎臓

雨間一晴

第1話 私の腎臓が死んでた日

「直ぐに入院が必要な危険な状態です」

「でも、仕事に行かないと……」


「障害者になってしまうあなたと一緒に居れるか分からない、別れた方がお互いのためだと思う、本当ごめん」

「……ううん、ごめん。そうだね。本当ごめん、申し訳ない」


「このままだと移植した腎臓が、五年も持たないかもよ」

「……」


「何が君の自殺を引き止めたのかな?」

「……分かりません」


 七年前、私の腎臓は、とっくに死んでいた。

十二月一日、まだ動物柄のカーテンから、朝日は侵入できておらず、この八畳間の狭い世界に、暖房では、ごまかしきれない寒さがあった。


 右足が布団から逃げ出していた。いや、隣に眠る君が、布団を奪い、呑気にいびきをかいていた。今にもニヤけて何か言い出しそうに口を開けながら。時々その口に何か入れたくなる程だ。

 寝ながら布団を一人占めにしたものの、寝てる間に暑くなったのか、腹までずり落ちた布団を起こさないように掛け直した。枕元には腕時計が置いてあった。あの日の輝きのままだ。


 まだ汚れ一つ無い白い壁を見ながら、ふと、お腹をさすった。さすがに冷えたかな、そう思いながらトイレに向かおうと立ち上がると、頭も痛かった、そして猛烈にだるい。

 小さいお爺さんでも背負っている様なしんどさに、ベッドが魅力的に輝くが、床に落ちているシャツを蹴りながら歩き出した。

 

 トイレに付く頃には、私の膝は地面に付いていた。


(これは、ノロウィルスかもしれない。何か悪い物食べたっけな……)

 無性に喉が渇き、二人で生活するには大きな茶色い冷蔵庫から、一ガロンのオレンジジュースを、コップに入れる手間も惜しみ直接飲んだ。


 私の好きな、海外の輸入品を置く大型スーパーは、オレンジジュースの容器も日本の大きさではなく、一ガロン、つまり三・七八ℓもある。そして、またトイレに戻るため、冷蔵庫に戻したそれは、軽く頼りなくなっていた。


 再びトイレとしばらく友達になった後、私は病院に行こうと思った。非常に行きたくないし面倒くさい、しかも土曜日で救急外来に行くのも気が引ける。お金もかかりそうで嫌だ。人間は少しの健康より、財布の中が気になるものだ。

 でも行かないと明日の仕事に響くかもしれない、いや、もしノロウィルスなら出勤出来ない、それは困る。とにかく病院に行こう。


 とりあえず布団の主と相談してみよう。

「ごめん、おはよう。朝から申し訳ないんだけど、戻しちゃってさ……」

「やばいじゃん、病院行こうよ」

「うん、ごめんね、せっかく休み合った日に」

「そんなの良いよ、とにかく行こう」


 私の車で病院に向かった、まだ街は眠り、今にも雪が降りそうな曇り空の下で、頼りなく街灯は私達を病院まで見送っていた。


「寒いね……ノロだったら嫌だな、前になったみたいな、トイレから離れられない程じゃないから、重症じゃないと思うんだけど」

「ノロだったとしても、治るから大丈夫だよ、ほら病院見えてきたよ」


 その総合病院は三つの建物に分かれていて、七階建ての眩しい程に白い外壁は、私の心を暗くしていた。

 私がまだ中学生の頃、尿検査に引っかかり、この病院で四時間待たされて、百人に一人くらい、このくらいの尿タンパクが出ても大丈夫な人はいる、問題無いです。

 そんな感じの雑な診察で、四時間待って五分で終わり。それにうんざりして、それから尿検査に引っかかっても、ずっとそれを言い訳に病院を避けてきたのだった。


 もし、過去に戻れるなら、それ以降の尿検査後も、ちゃんと病院に行けと伝えたい。それでも、遅かれ早かれ、きっとこうなるのだろう、逃げたくなる様な運命。


「診察カードと保険証はお持ちですか」

「あ、はい。えっと……」

 散らかった鞄から、それらを渡して、促されるまま申込書を書いた。緊張からか、不思議とそこまでお腹は痛くなかった、相変わらず気分は徹夜明けの様に重いが。


「お名前をお呼びするまで、そちらでお待ち下さい。様子が急変したなどございましたら、遠慮なく申し出て下さい」

「あ、はい。分かりました」


 黄ばんだ蛍光灯に灯されている小さな部屋には、オレンジ色の四人掛けの椅子が三つ、窮屈きゅうくつそうに、コの字に並べられていてた。背もたれは所々、中のスポンジが覗いていて、床のタイルは黄ばんでいる、昔は真っ白で綺麗だったのだろう。


 そこには苦しそうにうずくまる小さな女の子がいた。ピンク色のふわふわのボアコートの中、小さな二つの手を大事そうに結んでいた。

 親指には簡易的に包帯が巻いてあり、力無く下を向くツインテールの下から、弱々しく必死に息を吸う音だけが聞こえる。落ちた水滴が包帯に染みていく、髪を結んでいる赤いリボンが揺れていた。

 そんな小さな背中を大きな手が撫でていた、今にも泣き出しそうなおじさんは、彼女の父親だろう、何かしてあげたいのに、何も出来ないのは辛いものだ。


 私も少女と同じくらいの頃、転んで頭を切った時、隣にいた母親も、同じ様な顔をしてくれていたのかもしれない。あの時は慌ててパウダースプレーの消毒薬をかけすぎて、医者に傷口が見えないと怒られてたっけ。

 そんな事を寝ぼけながら考えていた。


 その子が病院から出て行って少し経ち、私は呼ばれた。

 何となく少女を思い出しながら、外傷も無く、たかが吐いただけでと、申し訳なく思った。

 救急外来とは、命に関わる事故などに遭ってしまった人だけが、利用するべきなのだろう。そんな事を考えていると、余計に気持ちも居心地も悪くなってきた。早く帰って寝たい。


「ごめん、ちょっと待っててね」

「うん、大丈夫」


 室内に入ると名前も分からない照明や使い方も分からない器具、茶色や白い瓶に入れられた液体、そんな物達に囲まれて、二つの水色のベッドが車輪を付けて腰の高さで待っていた。

 室内は嫌に明るく、走り回れない程の狭い部屋に、二人の男性が動きやすそうな紺色の半袖、長ズボンで私を見ていた。

 そこまで歳も変わらなそうな気がして少し安心しながら、こんな事で申し訳なく思いながら事情を説明した。


「血液検査と尿検査をします、検査結果が出るまでは、ベッドの上で横になっていて下さい」

「分かりました、すみません。よろしくお願いします」


 血液検査なんて久しぶりだった、会社の安い健康診断では、採血なんて無かった。

 この時は呑気に考えていたが、後に嫌でも毎月採血と、赤ちゃんも居ないのに、エコー検査をする事になる。そんな月一の通院は、あっけなく半日潰れるのだ。

 そして週に計九十錠前後も色とりどりな薬を、毎日飲み続ける運命となる。


 ノロウィルスだったら会社にどう伝えようかな、嫌だな、とても面倒で憂鬱ゆううつだ。

 どんなに正当な理由でも、休みの連絡を入れるより、無理して出勤した方が、ずっと楽なのだ。


 安易な事情で、ずる休みをしていた小学生の頃の自分に、教えてやりたいくらいだ。

 大人は自由なんかでは無いと。子供の自由は素晴らしいのだと。

 いつから私は自由では無くなったのだろう。


 そんな下らない事を硬いベッドの上で考えていた。


「検査の結果が出ました」

「はい……」

「腎臓の機能が完全に死んでいます、直ぐに入院が必要な危険な状況です」

「え……」


 私には訳が分からなかった。目が奥に引っ込むような寒気を感じた。

 まず、腎臓って何。

 それが体のどこにあるのかさえ、無知な私には分からなかった。

 実感も無かった。私はノロウィルスなはずだ。

 いや、そんな事より、入院は困る。


「でも、仕事に行かないと……」

 私は医者を覗き込むように言った。それが相手を困らせるのも分かっているが、私も仕事に行かないと困るのだ。

 そんな私に若い医者は、少し眉の間にしわを作りながら、淡々と説明に近い説得をしてきた。


「いえ、仕事は事情を説明して、休んで下さい。大きな病院への紹介状を書きますので、そちらで正確な検査を受けて、診断書をもらうなりして下さい」


「そんな……でも……」


 何か医者が検査の数値や、今後の説明をしていたと思う。しかし私の耳をただ、そよ風のようにするりと駆け抜けて、彼等は何も無かったかの様に、次の患者へ淡々と処置をするのだろう。


 そう、恐ろしい事に、彼等には普通の日常なのだ、ノロウィルスだと主張する患者が、検査したら腎臓が機能していないので、他の病院への紹介状を書く。それだけの事だ。

 事故に遭って血だらけの患者が、彼等の目の前で、死ぬ事もあるだろう。


 私には、とても普通の範囲を、楽々と超えてしまっていた。

 私は、そんなつもりで、ここに来たのではないのだ。点滴でも打たれて、さっさと帰り、家で安静を言い訳にゲームでもするつもりだったのだから。

 何という事だ。ああ、非常に面倒で苦しい事になった。嫌だな。肩が地面に付きそうだった。


 自分の身体の心配よりも、今も待合室で待っている恋人へ、どう説明したら良いのだろうか。

 あのブラック企業の上司には、どう説明したら良いのだろうか。

 今も朝七時半から、夜十時過ぎまで、時には昼ご飯も食べずに、立ちっぱなしで働いているのだ。休む訳にはいかない。

 そんな職場で働いている私を、常に心配している親には、何て説明したらいい。

 友達には、何て伝えよう。ついこの前、カラオケで馬鹿騒ぎしていた思い出が色を無くしていく。


 腎臓の位置すら分からない、その時の私には、まだ事態の重大さに気付けていなかった。


 あれだけ明るかった病室が、何だか暗くなったような気がした。世界から切り離されたかの様な、不幸の始まりが足元から登ってくる。

 真実を知ったお腹は、もう痛くは無かった。

 

 それが、私の普通の人生が終わり、腎臓の死を知った日。

 平成二十四年十二月一日。

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