【私 2】
視界しか与えられていない夢の中の私にとって、そのドアを開けることは不可能であると思われた。しかし、息ができない。このドアを開けることができなければもう私は現実の世界でも目覚めないのかもしれない。まあ、それでもいい。どうせ目が覚めても自殺列車のなかだ。意識の中で夢と現実が交差する。
とは言っても、もう何が現実なのか分からない。今、私が現実と呼んでいる世界には「ゴッド」が登場した。
朦朧としながらそんなことを考えていると、ドアの向こうから声がした。
『ここは、あなたが来る場所ではありません。』
若い男の声だ。
『来るべきではないのです。』
男は続けた。
『そして、僕とあなたは会うべきではありません。』
意識がいよいよ遠のいていく。私は、心の中で何度も叫んだ。『苦しい。頼むからドアを開けてくれ。』
私は懇願した。
『開かないと思いますよ。』
しかし、声の男の言葉に反して、ドアが開いた。私はドアの向こうに進入する。瞬間、空気が存在しないはずの横隔膜を捉える。意識が私の元へ帰って来る。
そこは、薄暗い廊下だった。右を見ても左を見ても終わりの見えない、幅1.5メートルほどの、木材で作られた通路がそこにはあった。よく見ると、廊下を挟んでいる黒い壁の両側には、ある一定の間隔で白いドアが無数に並んでいた。白いドアをいくつか目で追っているうちに、ある事実に気がつく。人が、座っている。まるでドアの番人のように。立てひざをついていたり、胡坐をかいていたり、座り方は様々だったが、皆うつむいて、しかし目は見開いていた。
無人のドアもあった。それらは番人を携えたドアに比べ、いくらか灰色がかっていた。
『あなたには私が見えるのですか?そして私の声が聞こえるのですか?』
私は声の男に尋ねた。
『見える、聞こえる、と言うよりは感じる、と言ったほうが正しいと思います。実際、あなたには僕が見えていますか?見えていないはずです。ここでは人間の姿は不可視です。そしてあなたが僕の声としてとらえている音も、空気を介さず、直接あなたに届いているものです。』
ふと、ドアの番人たちを見ようとする。今度は、私の眼球は人物の像を結ばなかった。実際には見えていないのだと気づく。しかし確かに、彼らの存在を、姿勢を、眼球の動きを感じる。神経を研ぎ澄ませると、声の主である男もまた、ドアの前に座っているのが分かった。
『先ほども申し上げたとおり、ここは、本来あなたの来る場所ではありません・・・。』
声の男は、この廊下について語り始めた。
この廊下は、いわゆる「地獄」のようなものだという。前世で殺人を犯した人間が、永遠に収容される場所なのである。本来なら人間には来世というものがあり、別なものに生まれ変わるのだが、殺人を犯したものは輪廻のサイクルから外れてしまい、永久にドアの番人となり、そこから動くことはできない。ドアは彼らの前世と繋がっているが、一度閉まってしまうと二度と開けることはできないのだという。それぞれ実体はないのだが、別の者のドアからは出入りできないし、壁をすり抜けることもできない。
この罰の中で最も注目すべき点、また恐れるべき点は、殺人者である番人その人の人格、そして理性が永遠に残る、ということである。番人たちは、永久的に自分の自由が奪われたことを知りながら、さらに、しっかりと時間の流れを感じながら、そこに座っていなければならないのである。どんな肉体的苦痛よりも、この罰が持つ精神的圧迫は、計り知れない苦痛を生む。
『あなたのドアも閉まりつつあります。』
男は言った。たしかに、先ほどは全開だったドアが、少しずつ閉まり始めていた。
『あのドアが閉まるまでに、僕はあなたに伝えなければならないことがあります。そして、あなたは戻らなければならない。許していただけるとは考えていません。もともと言うつもりも無かったし、言う機会もないと思っていましたから・・・。』
『何でもおっしゃってください。心の準備はできています。』
『はい。ではそうさせていただきます。お伺いしますが、あなたには、奥様と衣里さんという娘さんがいらっしゃいましたよね?』
『はい。私は今、恥ずかしながら彼女らから失踪を試みています。愛情を確かめるために。』
それから私は、彼に「失踪」の素晴らしさを一通り語った。
『・・・そうですか。失踪とは素晴らしいものなんですね。いままでは悲しい響きの言葉としてしか感じてはいませんでしたが。』
『はい、私はそう考えています。』
声の男は少し間を空けてから、
『しかし、あなたは実際には失踪できていません。なぜならあなたを探すべき妻や娘は、すでに僕の手によって殺められていたからです。』
『どういうことですか?』
『ゴッドから既に聞いていると思いますが、あなたは自殺しました。当日、あなたは失踪しようとしていたはずなのに、結果的に死を選んだ。それはなぜか。あなたが、本能では妻や娘が殺されていたことに気づいていたからです。あの自殺は、生きていくことが不可能になったことからの、本能からの、自殺だった。でも、本能では妻と娘が殺害されていたことに気づいていたが、理性がそれを許さなかった。あなたは二人の死体をそれぞれのベッドに横たえ、キッチンの血を拭い、二体の遺体との生活を始めたのです。』
『なぜそのようなことがあなたに分かるのですか?』
『自らが殺めた者に関するもの、例えば遺族の様子や場所は永遠に可視です。ゴッドによると、それらを永遠に意識し続けることも罰の一部だということです。あなたは、腐敗が始まった遺体と生活していました。』
『そんなはずは・・・。』
『いえ、事実です。その証拠にあなたの家庭に会話は無かったはずです。生活にも様々な変化があった。しかし、あなたの理性は家族二人の存在、生命の存続を肯定し続けた。まるで以前となんら変わりのない生活を送っているように。全て私の過ちから始まったことです。申し訳ありませんでした。』
『申し訳ありませんでしたと言われても・・・。』
頭の中で怒り、悲しみ、様々なことが渦を巻いては消えていき、混乱だけがはっきりと残る。
『あなたが夢でこの廊下に来ているのは、ドアを開くことができたのは、おそらく家族を殺した者への強い殺意からでしょう。あなたは本能の部分で家族をとても愛していた。彼女らの命を奪ったものを殺したいと思うほどに。だが、あなたはここに来るべきではない。私はもう死んでいます。あなたが殺すべき人間は既に、死んでいるのです。あのドアが閉まって、あなたが現世に帰れなくなるということは、あなた自身が、他の関係の無い誰かを間違って殺してしまうということを指します。僕達にとっては現実でも、あなたにとって夢で終わるはずのものが、夢でなくなってしまう。あなたは今、夢から戻れば現世で自殺したものが乗る列車に乗っていると思いますが、ゴッドが言っていたとおり、第二の肉体は第一の肉体と同様の条件を持っています。もちろん人も殺すことができます。しかも、第二の肉体は念ずるだけで人を殺めることができます。僕もあの列車に乗っていたので本当のことです。悪いことは言いません、過ちを犯す前にあなたは現世へ帰ってください。あなたはもう、自分の本能を知ってしまったのです。さあ、ドアが閉まりますよ。』
ドアはもう半分閉まっている状態だった。白いドアは、常に動くことをやめない。
『ちょっとまってください。私は絶対にあなたを許すことはできません。ただ、私は知りたい。あなたは、あの列車に乗っていたと言った。どうして降りることができたのですか?』
『僕は、すぐに答えを見つけたのです。もっとも、その先に待ち構えていたのはこの地獄でしたが。』
『あなたにとっての答えとは何だったのですか?』
『僕にとっての答えとは、「注ぎ込む相手がいれば、それで愛は成立する」ということでした。僕は愛というものを双方向からのものでなければ成り立たないものだと考えていましたが、それは違いました。僕はその相手の命を自ら奪えば、その相手からの愛を独り占めできる、つまり愛し合うことが可能になるという確信を持っていましたが、片思いをして苦しかった時期、つまり彼女の生命が消える前と、彼女の生命が消えた後との愛の度量は、全く変化しませんでした。過ちを犯し、自らを殺めてからそのことに気づいたのです。僕が彼女を大切に思うこと、それだけで愛としては十分な価値を持つ、ということに。』
『私の娘を愛していたのですね。では、もしあなたが実際に衣里からも愛されていたとするなら、その愛の度量は変わっていたでしょうか?』
『いえ、変わらなかったと今は思います。僕の衣里さんへの思いは、衣里さんに届いても届かなくてもその姿を変えない部類の、独立したひとつの存在だったと考えています。』
この男がしたこと自体に対しては怒りを抑えることはできないが、不思議と、この男自身を責める気がしなくなってきた。
『あなた自身の答えは、見つかりそうですか?』
『分かりません。自分と対話するしかなさそうです。』
『あなたも、愛について考えてみて下さい。きっとそれが答えにたどり着く近道です。』
白いドアが、今にも閉まりそうだ。私は、声の男にせかされ、ドアに急いだ。
「答えは、見つかりそうか?」
目覚めると、ゴッドがまた目の前に座っている。
「夢の中で、ある青年からヒントをもらいました。」
「タカシだな。愛について考えろ、だろ?」
「なぜ分かるのですか?」
「これは俺がタカシに出したヒントだからだ。殺人者にいつまでも列車に乗っててもらっちゃあ困るからな。」
「そうだったんですね。」
殺人者、という言葉に、私の心の中に無数にある憤りで満たされた水風船のような塊が反応し、いくつかが無音ではじけるのを感じる。その一方で、あの声の男はタカシと言う名前なのかなどと冷静な自分も顔を見せる。
「家族を、彼に殺されました。そして私はその遺体と長い間暮らしていた。これは事実なんですか?」
「そうだ。間違いない。俺は見てたからなずっと。」
「ではもうひとつ確認したいのですが、なぜ私はその長い間犯人を捜そうともせずに、最終的に自殺を選んだのでしょうか?」
「それもタカシから聞いただろう。あれは、家族の死に気づいたお前の本能の部分が起こした行動だ。家族の精神的不在に耐えられなくなって自殺した。あの廊下の扉が開いたということは、本能では犯人への殺意は明確だったということになるが、お前の理性が家族の死を否定したために、もともと犯人の存在さえお前の中では最初から無い、ということになっていたんだよ。」
これもタカシが言っていたとおりだ。たしかにそれで説明はつく。私は納得したそぶりを見せる。
だが他人からそのようなことを言われても自分自身には実感が無い。私の中ではまだ家族は死んでいない。ゴッドやタカシの言葉を借りるのであれば、「理性」が私にそう思わせているだけなのだろうか。
「もし、ですが。」
「なんだ。」
「私がこの列車から降りられたとしたら、家族に会うことは可能なのでしょうか?」
「それは残念だが不可能だ。前世で殺された人間は、また人間に生まれ変わる。世界のどこかで、もう赤ん坊として暮らしていると思うぞ。お前は、もう人間に生まれ変わることはできない。自殺した者は、人間に生まれ変わる権利を放棄したとみなされる。しかも、前世で家族だったものは同じ場所で生まれ変わることができない。」
「では、私はもう家族に会えないことが分かっていて、この列車を降り、別の何かに生まれ変わるという道を選んでいかなければならないということですか?」
「そうだ。それがお前の運命だ。」
「運命ですか。」
私は、もう家族からの愛情を確かめることはできないのだ。
失踪さえ、することは許されなかった。それもこれもタカシが二人を殺したからだ。と、怒りを感じてみても、今となってはもうどうしようもない。私は、無力だ。
では、私の答えとは何なのだろう。家族も奪われ、自分の命も自ら奪った私の、答えとは何か。
タカシの言葉を思い出す。
「注ぎ込む相手がいれば、それで愛は成立する」
これは、おそらく正しいと思う。双方向からの愛情を確かめる手段を失ったと言う意味では、私も同じである。しかし、私の中でも、家族に対しての愛情の度量は変わっていない。そういう意味では、私と家族の愛は成立していたとみなして良いのだ、ということになる。
だが、私の場合、問題なのは、その度量の変わらない愛情と言うものが、不確かなものであると言う点だ。ゴッドとタカシの話では、本能では彼女らを愛していたということだが、そんな曖昧なものでいいのだろうか。タカシは、自らその愛情を明確なものとして認識していた。そこが私とは異なる点だ。
つまり、私の答えは、タカシと全く同じではない。
私はまず、自らの愛情が、不確かだ、しかしそれでよいのだ、ということを認めなければならない。そのことに気づいた時、涙があふれてきた。
私は、自分の愛の在り方を、愛することに確信を持てない自分の「理性」を、許してあげなければならない。
それが私の答えだ。
家族はもういない。初めて認めることができた。そして彼女たちは、私の愛が成立するために、永遠であり続ける。
列車のドアが現われる。おめでとう、良かったな、とゴッドが言う。私は、来世へと降り立った。
丘の上にひっそりと佇む洋風の家。両手を挙げても通れるほど大きなドアを開けると、段差の無い玄関がある。すぐ左側には下駄箱がある。私はその上で、枯れて朽ちるまで、次の訪問者を待つ。
「赦しの扉」 松元嬉々 @jazzy-ryo
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