【僕 2】

 朝、すんなりと目が覚めた。まるで、長い間忘れていた大切なことを急に思い出したようなさわやかな目覚めだった。死にたいと本気で考えている人は大抵眠れなくなっているものだろうが、僕は全くそんなことは無かった。普通に深夜の始まるころには床につき、普通の人が活動を始めるころには起床した。

 しかも、寝ようと思えばいくらでも寝ることができた。十分な睡眠時間を取ったあと、目覚め、さらに睡眠をむさぼる感覚は、夜にその日初めての眠りにつく感覚よりも甘美で、贅沢なものだった。バイトの無い日は、たまに夕方まで何度も起床と就寝を繰り返すことがあった。しかし、その行動が結果的に産み出す独特の精神的な不健康さは、僕の中にしっかりと根付いている自殺の美というものに対する憧れを一層引き立てた。

 その日も起床後三時間ほど寝たり起きたりを繰り返してから、身体をまわすようにしてベッドから降りた。「右足から降り、床を親指で8回叩く」、という決まりごとが一瞬僕の胸を寒々とさせる。自分でも意味の無いことだと分かっているが、そうしないと何か恐ろしいものが、心の奥から迫ってくる。もう習慣化してしまっていて、誰にも迷惑をかけないことだが、なぜか罪悪感が残る。

 朝食を食べる前に歯を磨く。だいぶブラシ部分が開いてしまった歯ブラシを歯茎に押し付けるように磨く。これも決まりごとだった。歯茎から血がにじむまで続けなければならない。

ふと歯ブラシに目をやる。赤く染まったブラシを見つめ、このあと流れるであろう衣里の大量の血を思った。そして、すべてが終わったあと流れる、自分の血のことも。

 少量の血を見ることは生命を連想させ、大量の血は死を連想させる。その二面性を持った血という存在に、僕は身震いをするほどの執着心を持っていた。

 衣里の血を、舐めてみたい。しかも、死の血を。血を舐めることで衣里と一体化し、永遠に一緒にいることができる。衣里の血は僕の血となり、僕の死の血をより一層華やかにしてくれるだろう。その思想はここ何日か僕の頭を支配していた。

 そう考えたら居ても立ってもいられなくなった。歯ブラシを咥えたまま、洗面所の壁に頭を何度か打ちつけた。

 朝食は結局摂らなかった。

 真っ黒なスキニージーンズに着替え、新緑を連想させるマウンテンパーカをシャツの上から羽織った。

 季節はどちらかと言うと春に傾いていた。春は、その明るさとは対照的に、心の闇を増大させる季節だ。心に闇を持ち続けている人は、春を喜ぶ自然や、人や、空気に遅れをとる。自らの現状とその際限の無い広がりを持った可能性とを比較する。そして、自分を責める。僕自身は少なくともそうだ。僕は、春が嫌いだった。

僕の家は細い路地の中腹にあり、衣里の家がある山の麓まで行くにはその町で一番大きな道路を通らなければならなかった。その頃の僕は、人に会うのも、人に見られるのも避けたいと思っており、その道のりを考えると少し憂鬱になっていた。衣里と一緒に酒を飲んだあと何度も夜道を家まで送っていき、慣れてはいたが、昼間にその道を歩くということを億劫に感じた。

衣里が必ずと言っていいほど家にいるのは、午後2時から5時の間だった。それは、衣里の話から調査済みだった。まだその時間まで5時間ほどある。早く家を出てきすぎてしまったと感じたが、扱い方の全く分からない興奮を抱え、あれ以上家にとどまっていることは不可能だった。

 仕方なく、寂れた自動販売機で缶コーヒーを買い、家の近くの公園のベンチに座る。その公園は、住民の憩いの場所というだけでなく、災害時には避難所となるほどの、その細い路地には似つかないほどの大きなものだった。

 不必要なくらい大きな砂場で、数名の幼児が遊び、それを親が大事そうに見守っている。

缶コーヒーを飲み終わろうという頃、独りだけ少しはなれた砂場の端っこで、手で砂を

すくっては落とし、すくっては落としというのを繰り返している幼児がいることに気づいた。長い間見ていたが、その幼児は他の幼児に加わろうとは決してしなかった。加われないことに対してなんの苦痛も感じていないように見えた。

 ところが、その後ろにいる母親は、ちらちらと大多数で遊んでいる幼児の母親達を見ていた。そこに加わりたいという意思が、その背中から感じ取れた。しかし、その母親もまた、実際に加わろうとはしなかった。他の母親達の視界にはその孤独な親子が映っているはずだが、誰一人として声をかけることはなかった。

 その母親が突然、おもむろに幼児に近づき、その細い首を両手で締め上げた。何が起こっているかわからないという様子で幼児は両手をばたつかせた。

 僕も気が動転して一瞬何が起こったかわからず動けなかったが、すぐに理性を取り戻して孤独な親子の下に駆け寄った。コーヒーの缶が鈍い音を立てて転がった。

 他の母親は、ただ見ているだけだったが、その中の一人に救急車を呼ばせた。

 両手を払うように解き、その母親を押さえつけた。「この子のせいで私は一人ぼっちだ」という主旨の言葉をつぶやくように発していた。

 事態を重く見た母親の一人が警察を呼び、加害者となった母親は警察署まで連れて行かれることになった。救急車で運ばれた幼児がその後どうなったのかは知らない。

 僕は、母親の心の闇を思った。そして、母親の行動を止めに入った自分の、まだ壊れていない部分に気づかされた。これから、衣里を殺すことに少しのためらいが生まれた。公園の時計は午後1時を回っていた。

 

 大通りにでても、以外に人はまばらだった。食事時ということもあるのだろう。道路沿いにある飲食店は何処も物を喰らう人々でいっぱいの様だった。規制40キロの田舎道を、目で追うのが疲れるようなスピードで車が走り去っていく。

この通りには飲食店のほか、昔ながらの金物店や靴屋、八百屋などがあり、さらにそれらを圧倒するように24時間営業のディスカウントショップがある。そのディスカウントショップは、食品はもちろんのこと、生活に必要なものは何でも揃っているというのが売りだ。先ほどの金物店や靴屋や八百屋が何故生き残っているのかいつも疑問に思う。それなりのオリジナリティー、品揃えや安さなどがディスカウントショップを凌駕しているのだろうか。はたまた何処からか大量注文が入るのか、インターネットを駆使して通信販売を行っているのか。

そんな表面的なものでもない気もする。むしろそんな理由ではあって欲しくない。そこには昔ながらのあたたかい人間同士のつながりがあって、それで作られた世界があって、人々がそこで生活していく上で不可欠な交流の場所としてそれらの店が存在しているのだと思いたい。そして店主は、一度買物をした人の顔や人となりを絶対に忘れない。それは自然なこととしてそこにあるものだ。そんなことを考える。

ただし、今日の僕にとって、それは不都合以外の何物でもない。顔を覚えられてしまっては困る。

凶器となる予定の出刃包丁と皮の手袋、そして腕時計をディスカウントストアで購入した。この出刃包丁が衣里と僕の二人の体内に入る。すべてが終わったあと、僕はこの包丁で自分を刺し、自殺する予定だ。そのことを想像するとぞくぞくした。もしかしたら、少し笑みをうかべていたかもしれない。先ほど公園の件で生じたためらいは、どこかに消え去っていた。

そろそろ、予定の時間が近づいてくる。衣里の家に向かわなければならない。


大通りを山のほうにずっと直進していくと、途中から店も家も何も無い道に入り、林の中を抜けていくような道が続く。さらに時間にして三分ほど進むと、いきなりぱっと視界が開け、収穫を終えて次の田植えまで休憩している様子の田園風景が広がり、ぽつぽつと家が見え始める。

大きな日本庭園のような庭を持つ他の家々に比べて、衣里の家はモデルハウスをそのまま持ってきたような狭い庭の、まさに精一杯のマイホームという感じのものだった。山の麓に在るとはいえ、駅までは徒歩10分くらいの距離しか離れておらず、さらに車通りの多い大通りの喧騒からも逃れることができるので、好立地と言ってよいだろう。家々はそれぞれ、300メートルほどの距離を保って建っていた。

僕は、歩いて衣里の家に向かった。凶器一式は持参したリュックサックの中に入っている。この胸の高鳴りが、積極的なものなのか、消極的なものなのかは分かりかねた。腕時計を見ると2時10分を指していた。いよいよだ。


衣里の家に着くと、何のためらいも無く玄関のドアのチャイムを鳴らした・・・といきたい所だったが、玄関先で犬にほえられてしまった。あまりにほえるので思わず後ずさっていると、衣里の声が聞こえた。

「何してるの?どうしてここへ?」

見ると、玄関のドアを開けて衣里が立っている。ラフな黒の上下スウェット姿だった。

「ちょっと話があって。これで最後にするから話だけでも聞いてくれない?」

僕は言った。衣里は、少し考えてから、

「なら、ここで話すのもなんだから、上がってよ。こんな格好だけど。」

「ありがとう。」

衣里の家に自然に入ることができた。ここまでは、なんとか計画通りだ。


「へえ・・・素敵だね。」

「そうでもないよ。」

 玄関から入ると目の前にドアがあり、それを開けると二階までの吹き抜けのリビングになっていた。部屋の右端にはらせん状の階段があり、二階に繋がっていた。階段の手前にキッチン、さらに部屋の左側には低いテーブルがあり、それを囲むようにソファーが置かれていた。テレビは、車のフロントガラスくらいの大きさの立派なものだった。外から見るよりも、魅力的な家だと思った。

「まあ、座ってよ。今コーヒー入れるから。」

「ありがとう。」

ソファーに腰を下ろし、リュックサックを置き、一息つく。

コーヒー豆を挽く、あの独特なガリガリという音が部屋に響く。と同時に、リラックスを香りで表現するならこれしかないというような匂いが部屋に充満してくる。

ペーパードリップで注がれたコーヒーがガラスポットにぽたぽたと落ちる。僕はまた、血液を連想していた。それが、これからこの家で起きることの前に行われる一種の儀式のような気がしていた。

「はいどうぞ。」

「どうも。」

 コーヒーは、舌と同時に脳で味わうものだといつも思う。飲んだ瞬間、脳がこれを欲していたのだということが分かる。それが顕著に現われる飲み物だと思う。

「何なの話って、・・・っていっても大体分かるけど。」

「うん・・・。」

「・・・・・・。」

「・・・どうして突然もう会えないってことになったのかなって思って。あの電話の時は、妙に納得してしまったけど・・・。お互いを意識してるってのはそんなにいけないことかな。」

衣里は一瞬空中に視線を預け、それから言った。

「はっきり言ってしまうと、私はあなたとは男女の関係にはなれない。あの電話の時は意識してるのはお互いだと言ったけど、それはあなたをなるべく傷つけないようにと思って言ったことなの。私はあなたに恋愛感情なんて持てない。あなたからの好意に気づいて、とても気持ち悪くなったわ。」

僕は、息を飲んだ。衣里が僕のことをそんな風に思っていたとはさすがに考えていなかった。とてもひどいことを言われているのに、高まっていた殺意が逆に薄れていく。やはり、僕は衣里のことを好きだからこそ殺したいんだということを再認識した。突き放されたことで、好きだと言う気持ちも少し薄れてしまったのだろうか。いやそんなことはないと自分に言い聞かせる。

 

でも、そんな思考とは別のところで、気づけば僕は出刃包丁を取り出していた。そこからは、世界から音が失われたように静かで、いわゆるスローモーションのような状態になった。せっかく買った革の手袋もはめることは無かった。指紋がどうだとか、よく考えると特に関係ない。どうせ死ぬのだから。

 出刃包丁を衣里の胸に刺そうとして突き出した。衣里が倒れこんでそれをよける。包丁はソファーに深々と刺さり、少し抜くのに時間がかかった。その隙に衣里はキッチンのほうへ逃げた。包丁を抜き、キッチンのほうへ向かう。そしてまた、衣里の心臓めがけて包丁を突き出した。するとまたも衣里はそれをよけ、包丁はキッチンのホーローの壁にぶち当たった。僕はその衝撃で包丁を放してしまい、今度は衣里がそれを拾って、玄関からのドアのほうへ投げた。包丁が転がり、乾いた音をたてる。キッチンには裏口のようなものがある。おそらく僕がまた包丁を拾いに行っている間にそこから逃げるつもりなのだろう。

 そうはいかない、と思い、両手で衣里の首を絞めた。朝の公園で幼児の母親がしていたみたいにゆっくりと、とはいかなかったが、初めて衣里に触れているという感触を十分味わうことができた。

しばらくすると、衣里は動かなくなった。顔は、苦しみでゆがんでおり、とても美しい。あとは、包丁を拾いに行って、自分の胸に一突きすれば全てが終わる。その前にコーヒーでも飲もうかと思って後ろを振り向くと、ある人物が玄関側のドアの前に震えながら立っていた。

衣里の母親である。実際に会った事は無かったが、直感的にそう思った。衣里の死体を見つめ、両手に出刃包丁を握り締めていたからだ。母親が、ゆっくりと衣里のほうに近づいていく。僕との距離は2メートルほどだ。

突然、母親が方向転換して包丁を僕のほうに突き出しながら走ってきた。僕はそれを避けながら、包丁を床に叩き落した。包丁は綺麗に床に刺さった。お互いにそれを抜きにかかり、間一髪僕のほうが早く手にした。もみ合いになり、母親が床に倒れこむ。

気づくと、母親の身体から大量の血があふれ出していた。僕は怖くなってしまって、包丁が母親に刺さったままの状態に見向きもせず玄関のほうに走った。しかし、ドアに手をかけたとたん、あることを思い出した。まだ、衣里の血を舐めていない。このままでは衣里と一つになれない。

母親の元に戻る。包丁を抜いて、今度は全く抵抗しない衣里の胸めがけて突き刺した。血があふれてくる。興奮を抑えきれず何度も何度も刺した。そして、腹に刺したところで、包丁は抜けなくなってしまった。

夢中で衣里の身体にむしゃぶりついた。顔をうずめて血を舐めた。やっと一つになれた。これで衣里は僕のものだ。下半身が濡れていることに気づく。小便を漏らしてしまったのだった。

出刃包丁が衣里の身体から抜けなくなってしまったので、自分用の包丁をキッチンで探したが、なぜかどうしても見つけることができなかった。そうしているうちに気分が落ち着いてきたので、僕はこの家を出て行くことにした。

顔は血だらけ、下半身はずぶ濡れの状態である。僕が駅近くの踏切まで向かう際に、誰にも声をかけられなかったのは、この街の住民が他人に無関心だったからなのか、それとも、奇跡的に誰にも会わなかったからなのか。それについてはよく思い出すことができない。そしてそれから起こったことは、まだ自分でも半信半疑である。

おそらく自殺をしようとして踏み切りに向かったはずなのに、あるまばたきの間に急に視界が変化し、僕は列車に乗っていた。窓の外に目を落とすと、見慣れた景色が過ぎ去っていく。金物屋だ、靴屋だ、と思っていたら、急に窓の外が暗闇になった。

煙草の男に声をかけられたのは、そのあとだった。

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