【衣里の話】

どうしてなのでしょうか。席替えで隣の席になってうれしいのは、スカートをはいた、あの子。友達との恋愛話にも、少しも身が入りません。

 自分が女であることを何度も恨みました。好きだ、と伝えることはできません。幼い頃からいつもそうでした。

 好きだ、その言葉を何度も何度も心の中で反芻し、飲み込みます。相手が困惑する表情を想像して。

 言えない言葉。

 抱きしめる孤独。

 それでも一度だけ、想いが膨らみすぎて、あふれたことがあります。


「今度の日曜日、一緒に図書館で勉強しない?」

透き通る声、同じクラスの子。声をそのまま実体化したような白い肌に細身の身体。髪は少し茶色を混ぜたような長めのストレートでした。少しずつ気になり始めた、その透明感のある存在。

 学校のトイレ掃除の合間、いきなり声をかけられたことへの素直な驚きと、彼女と言葉を交わすことができるということへの華やかな喜びで、私の声は少し上ずっていたと思います。

「え?」

「だからさ、今度の日曜日、一緒に図書館で勉強しようよ。」

「あ、うん。うん!二人で?」

「そう二人で。いや?」

「全然そんなこと無い!」

思わず叫んでしまいました。

「・・・そんなことないよ、行こう、一緒に。」

約束は、突然に決まりました。

私は、というと、正直困惑していました。この上ない幸せな約束であるはずなのに、何かが心に引っかかって、まとわりついていました。

今になって思うのは、その「何か」は、間違いなく、その子とこれ以上近づいてしまったら、また自分は同じ孤独感と向き合うことになるという予感でした。相手と距離を置いていたほうが、恋が終わらずにすむ、という自分の本能的な勘から発せられた警鐘でした。

しかし、相手は友達として自分を誘ってくれている。ここで断ることは、私の学校での、一人の女子という立場を危うくする行為であるということもわかっていました。

一緒に行くことを承諾してからというもの、私と彼女は毎週のように図書館に二人で行くようになりました。彼女と自転車を二人乗りして行き来する図書館までの道のりや、彼女の香りにうっとりしながらペンを走らせる時間、全ての瞬間に私は幸せを感じていました。彼女を好きになっていく自分を止めることは、もうできなくなっていました。

 そして、図書館通いになれてきた頃、あれは土曜日でしたか、とにかく私は彼女に提案したのです。

「あのさ、今日はさ。」

「うん。」

「ウチで勉強しない?親も今日は居ないし、静かだと思うから。」

彼女は少し考えて、

「いいよ、じゃあ泊ってもいいかな?明日休みだし、合宿ってのはどう?」

・・・なんということでしょうか。彼女は無邪気な笑顔を惜しみなく私にさらけ出し、そういったのです。もし、私が男だったとしたら、このまま恋愛に発展してもおかしくない、言い換えれば彼女が私の下心に対しOKを出した、ということになるでしょうが、(それ自体が思い込みでしょうか)私は女です。彼女は、なんのためらいも無く、友達の家に泊りに行くということにOKを出したに過ぎないのです。

 心は、混乱していました。社会的に見た自分の「女」の部分が彼女を部屋に呼ぶことを可能にし、本質的な「男」の部分が喜びを感じている。自分がどこまで彼女の同性としての友達を演じていけるのか、強い不安を感じましたが、私は彼女をその夜泊めることにしたのです。


そしてその夜、私は彼女にキスをしました。


 目を覚まされることを恐れていましたが、彼女は気づかずにすやすやと寝息を立てたままでした。

 恋愛感情に突き動かされて、行動を起こしたのは、後にも先にもこの時だけです。それから後は、自分は完全に「女」として生きてきました。本当の自分は、もう死んでしまったのです。


 高校を卒業すると、昼は毎日オフィス用品を主に取り扱っている店で働き、夜は週に三回だけ売春婦として働くことになりました。本質的には同性である男性とお酒を飲み、お金を積まれ、そして抱かれました。

 でも、それでもいいと思っていました。愛情に飢え、女を求める。そういう男達に、自分は似ている。この男達に愛情を与えてあげられるのは、自分しか居ない。そう考えて、日々をやりすごしてきたのです。それは、ある意味自己満足の行為であり、背後に大きな矛盾を抱えていましたが、仕事としては素晴らしいもののように感じていました。


「あのさ、君何歳?」

「何でそんなこと聞くんですか?」

「いや、すごく上手かったから。幼い顔してるのにね。」

「そうですか?喜んでもらえて嬉しいです。また抱いてくれますか?」

「もちろん。ホントは毎日だっていいんだ。」


 自分は、幸か不幸か、その道から抜け出せなくなっていました。

 

そして何年か経った頃、出会ったのが、誠という同じ歳の男でした。客として出会ったのではなく、いつも仕事が無い日に独りで飲みにいくバーで、偶然近くに座った、最初はそのくらいの距離からの出会いでした。


「切ない顔してるね。」

女のくせに男の酒を傾ける自分に、誠は話しかけてきました。

「ちょっと疲れてて。」

自分は確かに疲れていました。しかし、それが日々の仕事の疲れなのか、人生自体に疲れてしまっているのかは、分かりかねていました。

「酒はさ、独りで飲むもんじゃないと思うんだよ。」

「あなたは独り?」

「僕は今君と飲んでる。」

「勝手な人ね。」

「どうかな。」

彼は微笑を携えながら、視線を落としました。

「少しだけ話聞いてくれる?」

「いいわよ。」

店は、一時の賑わいのあと、静けさを取り戻していました。

「振られたんだ、彼女に。好きだった。今でも好きだ。」

「どのくらい付き合っていたの?」

「去年の春からだから、1年とちょっと。」

「どうして振られたの?」

「率直に言うとさ。」

誠は少し間をあけてから、宙を見つめました。

「えーっと・・・そうだ。できなかったんだ。セックスが。」

「どういうこと?」

初対面でいきなりセックスの話をされるとは思いませんでしたが、ここは聞いてあげたほうがよさそうな気がしました。

「子供ができるのが怖くて。僕にはまだ父親になる資格がない。自分がいよいよ父親になってもいいかなって思えるまでは、子供を持つことはできない。」

「そっか・・・でも避妊をすれば。」

「いや、避妊だって100パーセントじゃないだろ?0.01パーセントでも子供ができる確率があるなら、僕はセックスが怖い。」

「そうなんだ。」

「そう。だからいつも、セックスは途中で終わり。前戯だけで。」

「真面目すぎるわよ。」

「そう思うだろ?彼女もそう思ってたんだろうな。だから振られた。」

誠は閉じた目の中で、彼女を思い浮かべているようでした。

 しかし、もしその彼女の中で、セックスが最も重要な要素だとしたら、1年もその関係を続けていけたでしょうか。私は、誠の、その真面目すぎる完璧主義の部分に、彼女は疲れてしまったのではないか、そう思いました。

「まあいいや、今の話は忘れてよ。もっと楽しい話をしよう。次は君の話を。」

 とはいっても、自分の暗い部分の事は絶対に話す事はできません。本当の自分を隠していること、夜の街で働いていること・・・それら全てが、誠との関係を一瞬で壊してしまう。そういう予感がしていました。

「私はさ、カフェで働いてるんだ。」

「バイト?」

「そうそう。」

「そっか。」


 そして毎週のように、誠と自分は飲むようになりました。

 内容はほとんど嘘でしたが、誠と話をすること自体が、単純に楽しかったということもあり、私の作り話で塗り固められた二人の関係は、奇妙に続いていきました。

 自分には、彼氏がいる。そういう設定でした。年上の、頼りがいのある彼氏。同伴出勤が多い自分にとって、彼氏は年上だと言っておく必要がありました(とは言っても街で誠に見られる可能性など、皆無に等しいでしょうが)。

 そうした日々が続いていく中で、誠が自分に対し、好意を抱いていることに気がつき始めました。ただ、自分はそれを受け止めてあげることができません。だから、せめて友情としての好意を誠に示すように心がけていました。

 誠は本当に完璧主義な男で、思い通りにならないと、自らを攻め立てるという性質を持っていました。仕事も外資系の企業に勤めている(彼が嘘をついていなければ)ということだったし、日常のストレスを溜め込んでいる様子でした。

  誠への恋愛感情こそ抱くことはできませんでしたが、深い意味で、私は誠を愛していました。それは、家族に対する愛情に似ていました。私は両親が健在で、同居していました。私が夜の仕事をしていることに対しても何も言わないくらい無口な両親でしたが、私は家族をとても愛していたのです。その愛情を傾ける相手が増えた、そういう感覚でした。

 

 その誠が、豹変しだすのに、そんなに時間はかかりませんでした。

 まず、メールが毎日来るようになりました。最初は、誠が今日何をしたかや、何処へ行ったか、というような内容でしたが、だんだん私の一日の行動を把握することを目的とするような内容に変わって行きました。

『今何してるの?』

『本当に?』

『本当は何してるの?』

『本当なら電話出れるよね?』

少しでも怪しいことがあると、狂ったように怒り、電話をかけてくるのでした。

私はだんだん怖くなり、仕事中にも関わらず、恐怖で涙するようになってしまいました。仕事に支障が出てきたので、2年目に突入していたオフィス用品店の仕事をやむなくやめる事になりました。誠との関係を絶ちたいのに、言い出すことができず、私と誠は異常な友人関係を続けました。

それでも、やはり、と言うべきでしょうが、最初に言っていた通り、誠は性行為だけは求めてきませんでした。それだけが唯一の救いでした。私は表面的に楽しい表情を浮かべ、毎週火曜日、誠と飲むのでした。その時間は、私にとって苦痛以外の何物でもありませんでした。

 

そんな関係が三年ほど続いたある日、たまには独りで飲みたいと思い、あれは確か金曜日だったと思いますが、誠と出会ったあの日と全く同じ状況で、男が声をかけてきました。その男は、隆志と名乗りました。

 隆志もまた、同い年で誠と同じように完璧主義の男でしたが、誠と違った点は、私を束縛しようとしないことでした。メールアドレスの交換さえしませんでした。

 ただ、他愛も無い話を延々とできる、本当に友達と呼べるような関係を築くことができそうな予感がしました。しかし、この時に気づくべきでした。本当に警戒しなければならなかったのは誠ではなく、隆志のほうだったのです。

 隆志とは、毎週金曜に飲むようになりました。


「それがさ、無人の野菜売り場でさ、」

「うんうん。」

「防犯カメラ設置って書いてあったんだけどさ、」

「うん。」

「良く見たら使い捨てのインスタントカメラが置いてあった。」

「あはは。くだらない!」


本当に他愛も無い話ばかりしていました。隆志との関係は、友人としての距離を適度に保ったまま何年か続いていきました。そして、私の中で誠より隆志のほうにベクトルが向き始めていた頃、誠から連絡が入りました。

「今すぐバーに来てくれ。もちろん大丈夫だよね?」


 バーでは微かにコルトレーンが流れていて、カウンターの席は全て埋まっていました。少し大きな声で話さなければ、隣に居る人の声さえ聞こえづらいような、学校の休み時間をイメージさせるような、そんな賑わい方でした。

 私と誠は、いつものカウンターではなく、仕方なくボックスの席に座りました。


「あのさ、率直に言っていい?」

誠から話を切り出しました。

「お前、この前の金曜の夜、ここで男と飲んでただろう?」

「何かの間違いよ。」

「うそつけ。あれは確かにお前だった。そして・・・隣に居たのは・・・」

「ただの友達よ。」

「・・・。」

「!」

誠の手が、急に私の太腿に伸びてきました。驚き、怖くて、振り払うことも叫ぶこともできませんでした。

「もうお前は俺のものだ。今後は彼氏にも会うな。そしてその友達とも。もし今度会っているところを見つけたら、お前が売春していることを警察に通報する。こんなことされることにも慣れてるんだろう?」

私は血の気が引いていくのを感じました。誠は、私が売春行為を行っていることを知っていたのです。何故?私はひどく混乱しました。

「・・・。」

「俺はこの一週間お前をつけていた。全て知っているんだよ。全部嘘だったんだな。今後は俺の言うことを聞け。」

返す言葉がありませんでした。


そのあと、私は誠が見ているなかで、隆志に別れの電話をしました。隆志とせっかく築いた友人関係はついに終わりを迎えたのです。

私に残ったのは、誠からの脅迫的な束縛でした。


そして、数日後、隆志が私の家にやってきました。

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