【僕 1】

幼い頃から、僕の生きてきた軌跡には常に理由があった。例えば食事をするのは生きていくためだったし、その前に手を洗うことは、手に付いたバイ菌を殺すためだった。歯を磨くのは虫歯にならないためで、トイレに行くのは漏らさないため。

 それらを僕に教え込んだのは父だ。父は僕を育てるにあたり、全ての場面において理由を示した。「物事にはね、必ず理由があるんだよ。」それが父の口癖だった。今考えると、父は、生きていく上で無意味なものなど一つもないのだということを僕に教えたかったのかもしれない。

 「物事には理由がある」この考え方はおそらく間違っていない。間違ってはいないのだが、少年だった僕にとって、この考え方は少々重すぎた。食事をしたり手を洗ったり、歯磨きをしたりトイレに行ったり。そういう生活の中で繰り広げられる自分自身の行動を、理由を確かめながら行うことは苦痛以外の何物でもなかった。

 理由は最初、目的として僕の中にあった。その目的としての理由を達成するために僕は行動していた。その行動はひどく機械的で、無機質なものだった。まるで、あらかじめ決められたプログラムを、決められた手順に沿って踏襲していくかのような毎日。僕の主体性はいつの間にかどこかへ行ってしまっていた。そしてついに、僕はいつからか、自分の人生を客観的にしか見れなくなっていた。

 僕は自分にとって新しいこと、未知なものに何のためらいもなく突入してきた。そんな生き方ができたのも、自分の人生が自分の物ではないような感覚、つまり客観的に見るという感覚を常に抱えていたからなのである。そして僕は大人になった。

 毎日、日記をつけている。毎日、「死にたい」と書く。こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃ・・・とつぶやきながらペンを走らせる。

 「物事にはね、必ず理由があるんだよ。」

 僕は生きていく理由を見つけることができずにいた。 

 とくにレベルが高いわけでもない国立大学に進学し、これといった苦労も無く就職が決まった。周りから見たら順調な人生だったと思う。


 はじめに衣里に出会ったのは、大学二年の秋だった。大学は学祭シーズンで、どのサークルもその準備に追われていた。追われているといっても、それは幸せな空気を含んだ感覚である。僕は、天体観測をするサークルに入っており(実際には飲み会の方が多かったが)、学祭では手作りの小型プラネタリウムを屋台で売るという計画を立てていた。

 廉価にする必要があったので、紙とビニールで作った不恰好なものになった。何個か作った時点でこんなものが売れるのかという空気がサークル内に漂ったが、それもまた幸せな空気だった。

 いくら小型といっても、材料は大量に仕入れる必要があり、大学の近くのオフィス用品の店にちょくちょく通った。僕はサークルの会計係をしており、買出しも僕の役目だったので、一人で何回も店に行った。

 そして、その店で店員をしていたのが、衣里である。

 衣里は店の規模の割にたった一つしかないレジを担当しており、いつも忙しそうにしていた。

容姿がタイプだったというわけでもなく最初はただの店員としてしか感じていなかったが、あるとき僕にとっての衣里という存在を特別なものとして認識させる決定的なことが起こった。

 大方プラネタリウムも完成してきて、おそらくこれが最後になるだろうという来店時だったと思うが、会計のときに、お釣りを渡す衣里の手が震えていた。思わず衣里の顔に目をやると、衣里の目は涙でいっぱいだった。その涙は僕の心を大いに揺さぶった。理由の分からない涙が、僕の、なにか深いところを掴んで離さなかった。でも、声もかけず、ただ立ち去るのみだった。

 その日から、特に買うものも無いのに、その店に通うようになった。ただ、遠くから見て、泣いていないか確認しては帰る。そんな日々が続いた。僕から衣里に話しかけることは結局無かった。そしてある日を境に、衣里はオフィス用品の店から姿を消した。


 チャンスが訪れたのは、それから半年後のことだ。それは本当に奇跡のような出来事だったし、あとから考えると、僕はそのチャンスも逃したことになる。

僕は当時、商店街の一番端にある大きな本屋で、在庫管理のアルバイトをしていた。

病的に几帳面な性格は小さい頃から全く変わっておらず、必要以上に棚に並ぶ本の整頓を気にかけていた。閉店前のチェックで少しでも並びが変わっていたりすると、元通りの位置に直した。店主から見れば働き者に見えたらしく、重宝された。レジを打つ必要もなく、客に会うこともほとんど無く、気を遣う必要もないので、人見知りの僕にはかなり有り難い仕事だった。

そして突然、衣里が店に来るようになった。

 衣里はいつも夕方の、日が落ちる寸前に店に来た。小説を手に取り、立ち読みをし、そしてなぜか、もとにあった場所には決して戻さなかった。無造作に足元の棚に置き、いつも何かを思い出したような顔をして帰っていった。

 僕は彼女が帰るとすぐに本を元の場所に戻した。夕方になると衣里を待ち、ガラス張りの店の中から外を窺うようになった。商店街の角を曲がって自動ドアの方に歩いてくる彼女を見つけると目を逸らし、何事も無かったように仕事をしているふりをする。そんな日々が続いた。

 そして、そのうち僕は、衣里が本を元の場所に戻さないのは、僕を意識しているからじゃないのか?という妄想を膨らませるようになった。僕が几帳面に本を元の場所に戻すことを知っていて、僕のその行動をガラス張りの本屋の外から、それも遠くから見守っていて、ひそかな喜びを得ているのではないか?そう思うと楽しかった。半年前に、僕がそうしていたように、それは好意を含んだ確認作業に思えた。

 

しかし、あとあとになっても、僕はその勝手な思い出話を衣里に切り出すことは一度もなかった。

勢いで「好きだ」と言ってしまいそうで怖かったのだ。友達としてのぬるい、しかし確実な関係が崩壊してしまうことを恐れていた。それに、綺麗な記憶はそのまま僕自身を支える道具として存在していて欲しかった。

衣里にとっての一番特別な存在が僕でないことは分かっていた。

 それでもいい。衣里が傍に生きていてくれるだけで。


金曜日の夜、僕と衣里は酒を飲む。友達として、人生を語る仲間として。こぼれそうになる言葉を、僕は酒で流し込み、衣里の足元を見ている。

初めて一緒に飲んだのは繁華街の一角にあるバーだ。偶然を装って近くに座り、話しかけた。最初の頃は好意がばれないように、細心の注意を払いながら嘘を並べて、近づいていった記憶がある。

衣里を家まで送ったあとはいつも孤独感に襲われる。見つめる先は、ふらつく自らの足元の軌跡。確かめるように辿りながら家路につき、誰もいない部屋に明かりをともしてコーヒーを淹れ、一口飲んでから手首にナイフを這わせる。いつものことだ。

にじみ出る液体を見つめながら、生きている、と思う。

まだ僕は生きている。その実感を確信に変えてくれる鮮烈な赤。だが、僕の体温は何のために存在しているのか。衣里を包み込むこと以外に意味はあるのだろうか。不可能なことのために僕は生きているのか。

そんなことを考えているうちに僕の体温はいつの間にか外に出ることをやめている。そして理性が帰ってくる。かすかな痛みに後悔はないが、心に覆いかぶさった透明な黒は消えることは無い。

結局、僕は弱い。

「何やってんだろう俺。」

孤独な部屋で、黒は透明度を失っていくだけだ。

僕は、衣里のために生きている。


生きていく意味を考えることが人生の課題となったのは、いつからだろう。自分とは何だろう?ここになぜ存在しているのか。その答えを求めて考えを巡らす日々が続くようになったのは。

気の遠くなるような確率で生を勝ち得た人間は、これから生きていくことに何か意味を見出していかなければならない。自分で自分の道を決めていく権利を皆が与えられている中で、僕もまた、生まれてきたことに対して、自分自身が納得できる意味を創造していかなければならない。このことが脅迫的観念として幼い僕にのしかかっていた。物事には必ず理由がある。父の言葉を何度も反芻した。

「生きるために生きる」ということに僕は価値を見出すことができなかった。普通に就職して家庭を持ち、自らの生を次の世代に繋ぐ、そういう生き方を心のどこかで軽蔑していた。

だから、24歳になった今でも、こうして生きているかいないか分からないような精神状態のなかで、どうにか食いつなげるほどのバイトをしながら、毎日をやり過ごしている。大学を卒業してせっかく決まった仕事も2ヶ月ほどで辞めてしまった。何気ない毎日を愛おしく思うことはできない。

ただ、本当に衣里のために。

受け入れられる確率など、人が生を受ける確率よりも低いということは分かっている。でも、僕にとって衣里を精神的に失うことは、実際の死より死に近い。


「あなたは完璧を求めすぎてる。」

衣里は僕の横顔を見つめながら言う。

僕は、彼女の足元をぼんやり見ている。

「そうかな。」

「そうよ。満開の桜の中で、たった一つ蕾があることをあなたは許さない。」

「僕は現状維持が嫌なんだ。余白があるなら塗りつぶしたい。たとえその蕾が、蕾であることを望んでいたとしてもね。」

「でも、諦めることも大切。自分を許してあげなくちゃ。あなたはもう充分すぎるくらい頑張っているんだから。」

僕は彼女の目を見ることができない。衣里は、僕を何の抵抗も無く見ている。浮かぶ雲のような、ふわりとした優しい視線。

思えばいつもそうだ。衣里の優しい言葉は、僕を複雑な気持ちにさせる。彼女の言葉は、他者の侵入を拒む僕の心に、驚くほど簡単に、染み渡るように入ってくる。そして、その言葉に乗って、彼女自身も僕の中に入ってくる。本当に自然に。

心地よさを感じ、彼女にただ心配されることに対し、快感を覚える。


だが、ある瞬間に、衣里の優しい言葉の記憶は、僕の心を凍らせる。


街中で、他の男の人と楽しそうに歩く衣里。腕を絡めながら、笑顔を振りまく衣里。立ちすくむ僕には、何の権利も与えられていないことを思い知らされる。

彼女にとって僕への心配は日常の中の気まぐれに過ぎないのだ。彼女の言葉は、発せられた瞬間に意味を失っている。

それでも僕は、彼女の言葉を求めてやまない。自分の感情が届くことはないと知りながらも、僕は、彼女を求める。それが同情だと分かっていながら、彼女の言葉に居場所を見出している。


 そして、別れは突然やってきた。

 衣里との最後の電話は、とても悲しいものだった。

 「私達、もう会わないほうがいいとおもうの。」

 「何で?」

 「お互いを意識し始めてる。それはダメだと思う。」

 「分かった。」

 「・・・。」

 「・・・。」


 とてもとても長い、永遠とも思える沈黙のあと、別れの言葉が告げられた。

 「じゃあね。」

 「うん、じゃあ。」


 衣里と電話するのがとても好きだった。普段の友達としての距離は、そのまま物理的距離として僕と衣里の間に立ちふさがっていたが、電話では、まるで恋人同士のような距離に衣里が居るような気がしていたからだ。耳元に衣里の体温が届くような気がしていた。

 でも、その半径5センチメートルの距離どころか、もう友達としての距離さえ失われてしまった。もう衣里は僕の世界から消えてしまった。


 だから、殺すことにした。

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