「赦しの扉」

松元嬉々

【私 1】

「またか。」

思わず呟く。何度も見た夢だ。額の汗を拭いながら、もう一度目を閉じて深く息を吸い、ついさっきまで居た場所を、頭の中で一歩一歩踏みしめるようにして辿っていく。

丘の上にひっそりと佇む洋風の家。両手を挙げても通れるほど大きなドアを開けると、段差の無い玄関がある。すぐ左側にある下駄箱の上には花が飾られており、白を基調とした綺麗で寂しげな空間に彩を添えている。それが花の持つ色のせいなのか、それとも、花という存在が放つ独特の安堵感のせいなのかということは私には分かりかねたが、とにかくその存在は重要であるように感じられた。手で触れてみたいという衝動に駆られるが、私には手が無い。手が、というよりは夢の中での私には実体が与えられていない。あるのは視界だけだ。

触れることを諦めて花の後方に目を向けると、日付の部分だけ黒く塗りつぶされたカレンダーがある。その暗さを湛えた姿があまりにも花の美しさとかけ離れすぎていて、私は毎回恐怖にも似た感情を覚える。湧きどころの分からない静かな感情である。耐えられなくなって視線を逸らす。

玄関の正面には二階に通じていると思われる階段があり、その右横には廊下だと思われる暗闇がある。しかし、その廊下がどこに通じているかを私は知らない。先の見えないトンネルのようなその暗闇に足を踏み入れようとすると、決まって次の瞬間にはまどろみを誘うような光に包まれてしまう。

だから、光に包まれた直後に私が居るその部屋が、あの丘の上にある家の中かどうかということを正確に言えば私は確かめることができない。私が理解できるのは、レースのカーテンが白いということと、昼下がりの気だるい匂いが生み出す、せつない孤独感だ。

その先は、どうしても辿ることができない。孤独感を感じたところで私の夢はいつも停滞し、先へ進むことが無かった。逃れられない感情を抱え、風にたなびく白を見つめたまま、私は耐えなければならない。

実体のない私は、表情を作ることさえ許されず、ただただ白を見つめている。

  

幼い頃、私は迷子になるのが得意だった。得意、というよりはむしろ好んでいたというほうが近いのかもしれない。両親と買い物などに出かけた時は必ずといっていいほど、わざと迷子になった。

気づかれないように物影に身を隠す。息をひそめ、両親が慌てだすのを楽しむ。心臓が高鳴る。両親は私を必死になって探す。

私は、「探されて」いる。それはイコール「大切にされている」ということだ。と私は思う。その幸福感と安心感で病みつきになり、私は迷子になることを止められなくなっていた。

逆に言えば、私はそのような形でしか愛情を確かめることができなかったということだ。愛されているかどうか、というのは私にとって自分の存在が認められているかどうかという感覚に似ていた。自分はここに居て、存在していていいのか。それは、子どもの頃から常に解答が不安定な疑問だった。だから父や母の目の前から失踪し、自分の存在が求められているかどうかの確認作業が止められなかった。

「失踪」という言葉は、探されて初めて成り立つ。居なくなったことに気づいてもらえなければ、その言葉が使われることは無い。つまり、「失踪」という言葉がこの世に存在するのは、誰かが誰かの身を案じ、気にかけているという証拠なのである。「失踪」、素晴らしい言葉である。

大人になった私が今この場所から居なくなったら、その行為は果たして失踪と呼ばれるのだろうか。ふとそんなことを考える。

家族なら、有る。故郷に置いてきた両親と、妻と娘。かけがえの無い存在だと自分に言い聞かせながら作り上げてきた、人間関係の偶像の象徴的形である。間違いなく、私は彼らを愛している。自分の身がどうなっても彼らを守りたい。

でも、それがなぜなのかが分からない。なぜ、愛しているのか。血のつながりがそうさせるのか。理由が分からないから、自分自身の愛情さえ信じられない。思い込みに過ぎないのではないかという罪悪感、喉の奥をえぐられるような不安感を私は抱えている。

では、彼女らはどうなのか。私に対し、偶像の愛情でさえ感じてくれていないのではないか。妻や娘は、私を夫や父として認めてくれているのか。私には調べる術が無い。

ある時期から、家庭内で寡黙を通すことが理想の男性像だという、つまらないこだわりを持ち始めて以来、その呪縛は私に染み付き、言葉を発することさえ億劫になっていた。当然会話は無い。意思疎通の無い中、私達家族は、同じ屋根の下で暮らす他人同士にすぎなかった。

そして両親とは、何年も連絡を取っていない。もう私が迷子になっても探してはくれないだろう。大人になった私は、洋服売り場の棚と棚の間で息を潜めながら、自ら離れていってしまったことを一生後悔し続けるのだ。形の無い愛情を確かめるのは難しい。両親からの愛情はとっくの昔に諦めている。

ただ、諦めきれないものはまだ残っている。

私は、妻と娘から「失踪」できるだろうか。

  

計画は、朝実行することにした。火曜日、いつものようにスーツに身を包み、自転車にまたがり、駅へ向かう。坂道を颯爽と下っていく自分の姿を思い浮かべながら風を切る。

「行ってらっしゃい」と言う言葉が聴けなくなってずいぶん長い年月が経つが、いまだにその一言を欲している自分が居る。まあ私も「行ってきます」とは言わないのだが。

 駅はいつも通りの活気を携え、人々を吐き出す。私はいつもとは逆の方向の電車に乗った。

 車では通ったことのある場所だし、特に美しい場所でもないが、「失踪」しているはずの私にとって、電車の窓で切り取られた風景はとても新鮮に映った。

 そのとき、である。電車が動き出してから1分も経っていなかっただろう。

 「おい。」

 向かい側に座っていた乗客が話しかけてきた。少なくとも私よりは年上のようだ。

 「え?」

 驚き、思わず大きな声が出る。

 もちろん初対面だ。

 「失礼ですがどなたですか?いつかお会いしましたでしょうか。」

 「いや、面識はない。『お前』はな。」

 「言っている意味がよくわからないのですが?」

 「つまり、俺はお前のことを知っているが、お前は俺のことを知らない。一方的に俺が知っているだけだ。毎日お前のことを見ていた。」

 こいつ、ただのストーカーか?それにしてもなぜ私なんかを?

 電車が次の駅にさしかかろうと言う時、マナーモードにしていた携帯電話が突然震えた。画面を見た。会社からだ。

 「取れよ。」

男が促すが、取るわけにはいかない。なぜなら私の失踪において会社からも急に姿を消すことも必要条件だからである。

 「いや、大丈夫です。」

 「そうか。」

 一瞬の沈黙の後、男がまた口を開いた。

 「ついにお前も乗客だな。」

 「え?」

 「そうか。何も知らないんだな。まあ、あたりまえか。」

 男は煙草に火をつけた。

 「車内を見渡してみろ、何か気づかないか?」

 この車両には私達二人のほかに乗客が1人、少し離れた席に座っているだけだ。他に代わったところは無いな・・・と思った次の瞬間、私はうろたえた。ドアが、先ほど乗り込んだときにくぐったドアが、綺麗さっぱり消え失せているのである。席のほかは、開閉できない窓が残されているだけである。焦りを隠せず、他の車両を見に走る。しかし、どの車両にもドアは無かった。

 息を切らせながら煙草の男のもとに戻る。

「どういうことですか?」

「結論から言うと、お前はもうこの列車から降りることはできない。ある一定の『答え』を見つけるまではな。その『答え』を見つけた時、またドアが現われる。」

ここで、ある疑問が浮かんだ。

「あなたはなぜそのことを?」

「俺は、神様だからな。何でも知っている。」

「はあ。」

なんだこいつは。

「何でお前がこんなことに巻き込まれたのか、知りたいだろう。」

まあいい。とりあえず話を聞こう。

「はい。」

「お前は、自殺を図った。駅のホームで飛び込み自殺を図ったんだ。その瞬間の記憶は消してあるから、何を言っているんだと思うかもしれないがな。」

確かに、そんな覚えは無い。私は怪訝な顔を浮かべていたと思うが、煙草の男はかまわず続けた。

「この列車に乗っているのは、俺を除いて全員が列車に飛び込んで自殺を図った人間だ。他の車両にも乗客が居ただろう。そいつらは全員そうだ。そして、そいつらはこの列車から降りることができずにいる。つまりそれぞれの『答え』を見つけていないんだな。自殺を図った人間は、その答えを見つけるまではいわゆる『成仏』ができない。俺はこの状態を半死と呼んでいる。」

「半死、ですか。」

「そうだ。一般的に人間の世界では肉体は一つだと考えられているが、実はそうではない。半死の状態の時のみ、肉体は二つに分離することができる。分離と言っても、半分になるということではなく、それぞれの能力や条件を維持したまま、二つの個体ができる、ということだ。お前にとっての一つ目の肉体は自殺を図ったときに砕け散ったが、二つ目の肉体はここにこうして存在している。それも魂をともなって。この第二の肉体は、この列車の中でのみ存在でき得るものだ。つまり半死の状態とは、この列車に乗っていることそのものなんだよ」

「では、先ほど電話がきましたが、それはどう説明するのですか?」

「だから、さっき言っただろう。話聞いてるのか?条件を維持したまま、と言っただろう。半死の状態でも外部、人間の世界との連絡は普通にできる。そのほかも、以前お前が第一の肉体を持っていた時と同じだ。」

「そうですか・・・。」

一瞬家族に連絡したい、この事態を説明したいと考えたが、私は失踪中だった。それに、この男が言っていることが正しいのかまだ分からないし、神様と名乗っているのもうさんくさい。状況をまだ見極める必要がある。

「ちなみに、お前はここ何年か毎日自殺を図るかどうか迷っていた。今にも飛び込もうとしている様子を見ながら、俺にそれを止める能力があればいいのにと何度も思ったよ。神様もそういう意味では無力だからな。微力だが、こうして新入りにはこの自殺列車について説明してやることにしているんだ。なにも分からないよりはマシだろう。」

 確かにそうだ。何も分からないよりは良い。ドアが無くなった事を肯定するには、この男の話を信じることが一番自然である気がしてきた。

「幸運を祈る。そして俺のことはゴッドと呼べ。」

そして煙草の男改めゴッドは、少しの微笑を私に送り、その場を去っていった。

 窓に映る自分が、少し疲れて見える。その奥に目をやると暗闇だった。

 やけに長いトンネルだな、と思った。この街にそんなに長いトンネルが必要なほど大きな山などあったかななどと最初は考えていたが、それ以降、窓の外の暗闇が途切れることはなかった。ゴッドの話が事実かどうかは別として、もう戻れない何かに足を踏み入れてしまった、そういう予感がしていた。そして、いつの間にかまた目を閉じ、夢の中にひきこまれていた。


夢はいきなり動き出した。玄関からではなく、今度はたなびく白の場面から始まった。

レースのカーテンはしっかりと風を捉えていたが、次の瞬間、息ができないことに気づいた。視界しか無いはずの私でも呼吸の仕方は忘れていなかった。必死に横隔膜(おそらくそうなのだろう)を動かすが、まるで水中にいるかのように苦しい。だが、カーテンを見る限りでは、空気自体が無いのではない。水を肺に取り込んでも呼吸は成り立たないが、その部屋に存在している空気はまさに水のように私の肺に入ることを拒んだ。

「死ぬ」

夢の中でそう感じたのは初めてだった。苦しい、助けてくれ。しかし実態の無い私にはそう誰かに伝える手段は無いし、周囲には誰も居ない。

遠のいていく意識の中で、ふと身体の力が抜けるのを感じ、自分の視線を自由に操れることに気づく。私はカーテンから視線を外し、ゆっくりと左側に目を向けた。

ぼやけた視界の中にドアが見える。今までその存在には気づいていなかったが、どうやらこの部屋は独立した存在ではないようだ。

私は急いでドアに向かった。息苦しさから逃れるためには早くあのドアをくぐらなければ。そうすれば、孤独感からも開放されるような気がしていた。

きっとあのドアは、どこかに繋がっている。

  

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