第29話 前へ

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 その日の夜。なずなさんは僕達三人が泊まる事を了承してくれた。しかも春葉が親戚だからという事で、宿代を無しにしてくれるというなんともありがたい話だった。

「ほんまに子供泊めても一銭の得にもならへんなあ……またすずなに料金請求したろかな」

「すずな……?」

「うちのお母さんの名前よ。なずな伯母さんはお母さんのお姉さんなの」

 聞き覚えのない名前に首を傾げていると、春葉が説明を加えてくれた。

「あの子ほんま問題事とかすぐアタシに投げてくるんよ昔っから」

「本当にすいません、なずな伯母さん」

「春葉ちゃんもそのオバサン言うの出来るだけ止めてくれへん? そら確かにアタシも大分歳いっとるし、春葉ちゃんが年増って意味やなくてお母さんの姉って意味でオバサンって言うとる賢い子やってのは分かるで。分かるけど……分かるけどやっぱりそのオバサンって言う音の響きにおばさん耐えられへんわ。……あ、自分でおばさん言うてもた」

「……は、はい」

 戸惑う春葉の返答と全く同じ言葉を、僕も心中で呟いた。なずなさんは口数が更に増えた気がする。多分僕らの事がストレスになっているのかもなと思うと、なんだか申し訳なかった。

「まあとにかくや。変な事せえへん限りはアタシも口出さへんから好き勝手やり。人に迷惑かけるんと、あんまり部屋汚すような事だけはしたらあかんで」

 それだけ言ってなずなさんはさっさと部屋を出て行き、和室には僕と春葉だけが残された。

 古書によると、契約をこなす人間以外が儀式を手伝うためには、一定の手順で冷水に身を浸さなければならないそうだ。この寒くなってきた季節に水風呂と言うのもまずいんじゃないかと思ったけれど、正広は「楽勝だ! 上がったらすぐ儀式手伝うわ!」と何故か自信満々に部屋を出て行った。今頃水風呂に入っている頃だろう。

「なずなさん優しいね。ちょっと厚かましさとかもあったりするけど」

「いつも私の面倒とか見てくれてたしね。喋る時は合わせるのがちょっと大変だけど」

 たくさんボケたりされても突っ込みきれなくなっちゃうの。と言って春葉は笑う。

 僕も一緒に笑いつつ、自分の旅行鞄を引き寄せて儀式用のルーズリーフを引っ張り出した。

「それ、今から使うの?」

「うん。一ヶ月しかないなら、時間が無いのは一緒だからね」

「あたしも手伝う……には水風呂に入らなきゃいけないんだっけ」

「だね。僕も後で入るからさ、頼むよ」

 なんてやり取りをしてると、一階から「ああああああっ」という正広の叫び声が飛んできた。水風呂を張ってくれと頼んだ際に唖然としてたなずなさんも、リビングで呆れているだろう。

「正広、水風呂入ったみたいね」

 みたいだね、と僕は笑ってから、ルーズリーフに丸と、その中に星を書く。いつも描いている魔方陣よりシンプル。だけどこれを使う儀式では枚数がとにかく必要になる。

「これも、儀式で使うの?」

「もうちょっと先だけどね。この魔方陣ルーズリーフが百枚要るみたい」

「ええ……そんな大量に用意してどうするのよ」

「えっと……確か石灰で大きな魔方陣を描いて、その中心に鍋を置く。その中にこのルーズリーフ百枚を入れて燃やす、のが二十七番目の儀式らしい」

「それ本当に意味あるの?」

「胡散臭いって感じてるのは僕もだよ……とりあえず儀式は先だけど、準備はしておくんだ」

 喋りながら僕はシャーペンで魔方陣を描いていくけれど、これが思ったより難しい。これまでに魔方陣はたくさん描いたが、フリーハンドで綺麗な円なんて早々描けるものでもないし、何より枚数が多すぎて嫌になってくる。集中力も保てない。この後の儀式は物量に任せたようなものが多くあるので、こういった沢山の物を作る単純作業は人数が多いと本当にありがたい。

 ちゃぶ台にあった傷のくぼみにシャーペンが引っかかって、引いていた線がずれてしまった。正面に座って黙っていた春葉が僕に話しかけてきた。

「ねえ、朝日。渡すものがあるんだけどいい?」

「ん? どうしたの」

「――これ」

 ちゃぶ台の向こう側から差し出されたものは、二枚ほどの便箋だった。

「春葉が?」

「私じゃないわ。朝日のお母さんから預かってきたの」

「母さんから?」

 予期しなかった事だった。多分、こっぴどいことが書かれている気がする。受験の意義とかを語られてしまうのかもしれない。滅茶苦茶怒っているのが文面に滲み出ているかもしれない。そう思うと、背筋を少し冷たいものが走った。

 僕は緊張で手先を震わせながら、折りたたまれた便箋を開いた。


      *


 朝日へ

 私達が行っても喧嘩になってしまうだろうという事で、昔からあなたと仲の良い春葉ちゃんに説得に行ってもらうことになりました。どうやら正広くんもついて行ってくれるようなので、自分の考えを正直に話してあげてください。皆、あなたの事を心配しています。

 私は朝日のやる事にいつも反対ばかりしています。良くないことをすれば怒るのは親の責務だと思っているからです。でも、その結果、あなたが自分の進むべき道を見失ってしまっていたのだとすれば、私は親として最低です。だから、今回の家出のことに、私は怒りよりも自分の不甲斐無さを感じています。

 受験より大切なことがあるのであれば、それをきっちりし終わってから、必ず帰ってきてください。そしたら、もう一度向き合って話をしましょう。その時には、あなたの本心を教えてください。私も、あなたと向き合うための精一杯の努力をして見せます。

 お母さんより


      *


 朝日へ

 今回の事でお前に生きるべき道が見つかるのか、俺には分からない。お前が無理を押し通した責任は後でお前自身が払う事になるだろう。

 だから、どうせなら今中途半端には戻ってくるな。やりたいと言って飛び出したのなら、そのわがままをやり通してから帰って来い。でないと、やり切れもしない無謀に時間を、自分を費やすというのは勿体無いことだ。

 だが、もしもそのわがままを通じて何かを得る事が出来たというのなら、その行動に価値があったということだ。

 だから、何かを得て来い。

 これ以上他人に迷惑だけはかけないように。

 父


      *


 決して肯定ではない。全てを受け入れてくれたわけではない。ただ、僕の行動に少しの理解を示してくれただけだ。

 緊張して強張っていた心臓が、少し軽くなってキュッと締まるような感覚。

「なんて書いてあったの?」

「……ちゃんと、わがままをやりきって帰って来いってさ」

「一応は許してくれたのね」

「帰ったら大目玉だろうけど」

「仕方ないわよ。朝日が全部悪いもの」

「はいはい、すいません」

 僕の目を潤ませていたものが、春葉への軽口でどうにか引っ込んでいくのを感じた。

「この儀式の意味とかって、正広から何か聞いたりしてる?」

「色々聞いたわよ。正広は説明下手だから結局当てにならなかったけど、とりあえず綿雪さんっていう消えた女の子を取り戻すための何かだって」

「それだけ知ってれば十分だよ」

 シャーペンのノック音が一旦挟まって、春葉が口を開く。

「朝日はさ、綿雪さんのことって覚えてないのよね」

「そうだね。僕も含めて、多分あの子の事を覚えてる人は誰もいないと思う」

「なのに、朝日はどうして受験とか周囲の心配とかを振り切ってこれをしようって思ったの?」

「うーん、言葉にしろって言われると難しいんだけど……。夏休みが終わった九月一日、綿雪さんと交換してた日記を見つけて、訳も分からず心に穴が開いたような感覚があったんだ」

「綿雪さんがいなかったから?」

「多分」

「そっか」

 その三文字の含みに、何かが詰まっていたと僕は直感した。

 一旦手を止めて春葉の方を向いてみると、何か憑き物が落ちたような表情だった。それを見て、僕はシャーペンを一度ちゃぶ台に置いた。

「……朝日はさ、多分、綿雪さんのことが好きだったんじゃない?」

「え?」

 春葉の言葉が脳内で反芻される。でも、僕が実際に好きだったのは春葉だ。

 ――じゃあ、綿雪さんに抱いていた感情は何だったのか?

 心にぽっかりと空いてしまった空洞に、元々収まっていたものは何だったのか?

「綿雪さんがいなくなって、記憶は無いのにそんなに心が痛むってことは、それだけ大切に思っていた証拠なんじゃない?」

「大切だったからってそれがイコール恋愛だとは限らないじゃないか。かといってそれが何だったのか今の僕には分からないけどさ」

「そうなんだけど……でも交換日記をしてたってことは、相当仲が良かったんじゃないかしら? 朝日もまんざらじゃなさそうだし」

「……確かに」

 春葉は笑う。

 ただ、何故だろう。春葉の笑い方に凄く違和感を感じる。

「恋愛じゃなくても、一歩手前くらいまでは来てたんじゃない? じゃないとさ……私」

「?」

「朝日のこと、さ――」

 ……俺はさ、春葉が多分、朝日の事好きなんじゃねーかなって思うんだよ。

 正広と仲直りをした日に聞いた台詞が、頭をよぎった。一瞬だった。

「春葉」

 少し強めの口調で、僕は春葉の言わんとしていた言葉を遮った。俯き気味だった春葉がびくりと体を震わせて、僕を向いた。

「――駄目だよ。今の春葉の彼氏は、正広なんだ」

「……うん」

「言い訳とかされたら、僕は多分春葉を嫌いになる。……だから、駄目だ」

 僕は春葉と一緒にいたかった。手を取って、抱きしめて、大好きだと面と向かって言えるような関係になりたかった。

 でも、それを終わった後に引きずって、その劣等を好きだった相手に明かして同情してもらうなんて、本当にみっともない事だ。その感情は自分も周りも壊して、自分の一瞬の渇きを潤すだけの諸刃の衝動だ。僕は勿論春葉も、そんなことをするべきじゃない。

「……ちょっと頭冷やしてくるね」

 春葉はそれだけ言い残して、入り口のふすまを急いで開き、駆け足で一階に降りていった。

 もしかしたらキツく言いすぎたかもしれない。だけれど僕には芯のある言葉を届けるだけの力が無いから、こう言うしかなかった。ビンタされた頬が、ぴりっと痛んだような気がした。

「ごめんな」という独り言が自然に出た。

 僕に語りかけていた春葉の表情は、見た事がないくらいにとても晴れやかなものだった。

 でも、ぞくりとした。それが恐らく繕ったものだと、偽物の表情だと僕は気付いてしまった。気付けたのは、きっと春葉も僕と同じだったからだ。僕が正広に譲ってしまったように、春葉もきっと自分の恋から逃げてしまっているからだ。

 春葉の想いは、僕に向けられたものだったのだろう。

 でも今、終わってしまったそれを取り戻そうとしてしまえば、僕達三人の関係性は間違いなく壊れてしまう。それは、僕たちの誰もが本心で望んでいない事だ。

「うっす、風呂上がったぞ」

 ふと気付くと開いていた部屋の入り口に正広が立っていた。

「お疲れ。水風呂大丈夫だったか?」

「大丈夫なわけあるか。お前も多分あの叫び声聞いただろ」

「二階まで思いっきり響いてたよ」

「俺はともかく春葉とか大丈夫なのかよ? マジでキツいぞあれ」

「春葉は……まあ最悪見てるだけなんじゃないかな」

「まあよ、俺もバリバリ働くからさ、さっさと儀式っつーの終わらせちまおうぜ」

「……そうだな」

 正広の前向きな言葉に、僕は曖昧な返答しかできなかった。

 言いようの無い不安を残したまま、夜は過ぎていった。


 翌朝、朝起きると部屋には僕だけが取り残されていた。川の字で寝ていた僕たち三人だったが、既に僕の両サイドの布団はもぬけの殻だった。

 今何時だろう。そう思って部屋の置き型のデジタル時計を探していると、枕元に二つ折りのメモが一つ、転がっているのを見つけた。

 おぼつかない手で、僕はそれを開いた。


      *


 先に起きてリビングに居ます。儀式を始める前に呼んでください。

 それと、昨日はごめん、気にしないで。私も昨日一通り自分で整理をつけたつもりです。

 私はそんな事をしにきたんじゃなくて、朝日を手伝いに来たんだから。

 頑張りますっ!

 春葉


      *


 メモには鉢巻を巻いた可愛らしい猫が落書きされていた。

「……そっか」

 痒くもない頭をわしゃわしゃと掻いた。寝癖がどうも酷そうだ。

 万全ではないけれど、十分ではある僕たちの意思。僕も、正広も、春葉も、皆何かと向き合っている。きっとそんな僕たちなら、儀式をすぐに終わらせる事が出来るはずだ。

 寝ぼけた頭で、そんな事を思った。

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