第28話 和解
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勉強がおろそかになってしまっているのが実情だったけれど、一方で儀式はこれまでにないくらいスムーズに進んでいた。五日で三つも儀式をこなせたので、この調子でいけば軽く二十は儀式をこなせるだろう。
「君最後出て行く前にこの汚い部屋片付けてくれるんやろうね? このまんま出て行こうとしたらさすがにアタシもキレるで」
「大丈夫です、散らばってますけど全部使うものですから。最終的には全部無くなります」
おやつどきのお茶を届けに来てくれたなずなさんに、僕は軽い会釈を返した。そしてちゃぶ台の上の描きかけの魔方陣にすぐ目線を戻す。
「あんたもようやるわ、その――おまじない? みたいなやつ。寝る、ご飯、お風呂以外ずっとそれやってるやん」
「そりゃこれやるためにここに来たんですから」
「ふうん……」
なずなさんはちゃぶ台のスペースにお盆を置いて、僕の正面に座って茶を啜りだした。
「え、居座るんですか」
「別にええやろ。今は別に邪魔もせえへんから」
摘み上げた個包装のせんべいをちゃぶ台の上に置き、右手を槌のようにして叩き割ったなずなさん。おばちゃんの代名詞みたいなアクションだなあと思いつつ、僕は手に取った湯飲みの中身に、息を吹きかけて冷ます。
「あ、報告なんやけど、君の事昨日の晩に春葉ちゃんにだけ連絡させてもろたで」
「はるっ!? ――熱つつつっ!」
手を滑らせ、湯飲みとともに膝にぶちまけたお茶の熱さに悶える僕。
「あーあ、もう何しとん。火傷してへんか?」
なずなさんが濡れた布巾を突き出してくれたので、それで零してしまったお茶を拭く。足はお茶で熱いのに体を走るのは身震いするような緊張で、そのギャップがひどく気持ち悪かった。
「分かりやすく動揺するなあ自分。朝日くんの名前最初聞いてなんか覚えはあったんやけど忘れてしもててな。せやけど昨日柿剥いてたら思い出したわ。――君、ここに泊まりに来たことあったやろ」
「ごめんなさい全く覚えてないです」
「でも春葉ちゃんのことはよー覚えとるんやろ?」
「覚えてるも何も中学一緒ですから」
「せやろ。ほんならアタシが君のこと知ってんのも合点いくわ」
「僕は全然合点がいかないんですが……」
自分がズボンの同じ所ばかりを拭いていることに気付いて、僕は別の場所を拭きにかかる。
「まとめて言うたら、アタシが春葉ちゃんの伯母さんに当たる人で、君と春葉ちゃんが小さい頃ウチに泊まりに来たことがあるっちゅーことや」
「そんな偶然あるんですか……」
「そんなも何も、現にアタシと春葉ちゃんが親戚に当たるんやから。むしろ君が何も知らんとウチに来たのがおかしな話やねんで?」
「そりゃそうですね……」
頭に浮かんだのは、最初にこの民宿の看板を見たときの感覚だった。見覚えがあったように感じたのは、幼少の頃にここにきたことがあったからなのだ。
ただ、問題なのは僕と春葉にこの民宿との関係性があったことじゃない。
「春葉――どんな反応してました?」
「今日学校終わったらすぐ来るんやて」
「最悪だ……」
「あ、ちなみに逃げよう思ってもあかんで。君の両親に春葉ちゃん通じて『逃がさんといて』って頼まれてしもたからね。チェックアウトとか一切させへんから」
「最悪だ……」
「ごめんなあ、やっぱりアタシ家出少年匿うとか無理やわ。ご両親にも心配かかるし、ましてや家飛び出してまで謎の恋愛成就のおまじないしてる中学生泊めてたとか、ご両親にどないな屁理屈で説明したらエエか分からんもん」
「ごもっともです……」
考えうる最悪のパターンだ。そもそもこの民宿に泊まってしまったのが間違いだったのだ。
結局どこまでいっても、家出をした僕の存在は他人からすれば迷惑でしかない。当然のことだった。家出少年の末路なんて案外こんなものなのかもしれない。
儀式の終わりがまた遠のこうとしている。
一通りスウェットズボンや畳を拭き終えた布巾をお盆に置いて、僕はなずなさんを見た。
「そういう事やから、帰る準備しとる方がええかもしれへんで。多分、強制送還やろ」
「……なずなさんとしては、やっぱり僕みたいな家出少年泊めるわけにはいきませんか」
「せやなあ。両親の許可出てたら話は別やけどな、ってもうそれ家出少年ちゃうんか……」
「両親の許可――有れば、泊めてくれるんですか?」
「まさか許可取る気なん?」
「そうしないと、おまじないが出来ません」
「――アタシが訊いてええんかは分からんけどさ、なんでそないに、そのおまじないに必死なん? 好きな子にアプローチするんやったらもっと方法あると思うんやけど」
「好きな子……じゃないですけど、その人へのアプローチはこのおまじないしかないんです」
綿雪さんは消えてしまっている。
神様に儀式を通じて祈るしか、僕に残された方法は無い。
「それは、ホンマに今やらなアカンことなんか? アタシもあんまり頭エエわけちゃうから人の事言えんけど、今ぐらいは勉強とかした方がええんちゃう? 家出しとる場合ちゃうで」
「今じゃなきゃ駄目です。今これを終えないと、僕は先の人生できっと後悔します」
僕は作業を再開する。そんな僕の様子を見て、なずなさんは大きく息を一つ吐いた。
「聞く耳もたへんな。……ほんならとりあえず、そうやって春葉ちゃんと両親にそう言うて、ちゃんと説得しておいで。そしたら泊めたるから」
急に優しくなったなずなさんの言葉に、僕は耳を疑った。
「いいんですか」
「構わへんよ。君の行動が両親とか友達に納得してもろてるんやったら、アタシに止める理由なんかあらへんもん。泊まってるときに問題さえ起こさんかったらな」
なずなさんは湯飲みの乗ったお盆を取り上げて、重たそうに腰を上げた。
「多分、もう一時間もせんうちにあの子来るわ。それまでにちゃんと言いたいことまとめとき」
なずなさんはその台詞を最後に部屋から出て行った。
言いたいこと――か。
一時間後、チャイムの音が家中に響いた。
とむとむ、とふすまがノックされた。春葉が来たのだ。
僕は作業を止めてふすまに向かい、それをゆっくりスライドさせた。
目の前にあったのは僕よりも背丈の高い男の姿だった。一瞬僕の体が強張る。
「……正広」
大きな手が灰色のスウェットの胸倉を掴むと、僕の体がふわりと浮く。ギリギリ爪先立ちができるくらい。僕は正広に目を合わせられなくて、目線を視界の右下の方にやる。多分、目を合わせると僕の何かが耐えられなくて壊れてしまうと思った。
「朝日、俺今怒ってんぞ。こんなに人をぶん殴ってやりたいって思ったのは初めてだ」
「……悪い」
「でも、俺は殴らねえ」
正広は僕の胸倉を放り捨てるように離し、僕は思いっきり尻餅をついた。お尻の痛みに顔をしかめる間もなく、強烈なビンタが飛んできた。頬が電撃を走ったような、強い痛みだった。お尻の痛みがすぐに気にならなくなった。
頬を押さえてビンタの主を見上げると、目いっぱいに涙を浮かべた春葉がいた。
肺にコルク栓が詰まったかのように息が苦しくなる。今すぐ大声を上げてこの部屋から飛び出したい。でもどうしようもなく手足が震えていて、僕は身じろぎ一つすら出来そうにない。
「一ヶ月」
僕を見下ろす春葉は、涙声で言った。
「何が?」
「説得に、最高で一ヶ月かけて良いって言われた」
「誰に?」
「朝日のお母さん」
一ヶ月って、僕の家出が終わるまで?
鼻をすする春葉の後ろから正広の声がする。
「俺、言ったよな。一人で全部抱えるから駄目なんだって。二人でやれば倍のスピードで全部済むって。だから、三人でやれば三倍のスピードでこなせるだろ、それ」
ちゃぶ台の上をあごで示す正広は、険しい目線で僕を射抜く。僕は身動きどころか正広から視線を動かすことも出来なくなった。体が固まってしまった。
「俺も、春葉も、朝日の友達なんだ。お前が綿雪のことを信じてくれないとか思ってるんなら、俺達をまずは信じてくれ」
あ、でも俺が綿雪の事信じられないっつったのか、と正広が後付けで呟いたのは全く気にならなかった。正広の言葉に頭がくらくらしていた。心に大きな何かをくらっていた。僕は二人の事をまず友達として、信じる事すらできていなかったんだ。
最低か、僕は。
「……一ヶ月って、その間学校はどうするんだよ」
「サボる。俺は親に話したら余裕だった。もちろん春葉もな」
「私ここ親戚の家だしね。お母さんが勉強サボらないならいいって」
顔を上げてられなくて、僕は畳を見つめて言う。
「そこまでしなくてもいいじゃないか。僕だって、今やってる事が何なのか分かんないんだ。そんな胡散臭いことに首突っ込んだ、訳の分からない友達なんて気にしてる場合じゃないだろ」
「受験も儀式も変わりゃしねえよ。元々俺達はどこに進んでるのかなんて分かる訳ねえ。でも、お前が色んなもんを費やしてまで進もうとする道なら、俺達にとってもそれに価値はある」
「多分正広は勉強嫌なだけなのよ」
「馬鹿、それ言ったら色々台無しになるだろ」
二人の掛け合いで少しだけ空気が軽くなって、僕達は笑った。
二人とも、どこまでお人よしなんだろう。
「ありがとう」
僕の言葉に二人は疑問符を浮かべる。
人の心は人にしか分からない。僕の心は僕にしか分からない。僕の言うことなんて信じてもらえない。そう言ってふさぎ込もうとして、僕は逃げるようにこの民宿に飛び込んだ。
だけれど、そんな逃げてばかりの僕の心を分かろうとしてくれる友達が二人いる。理解なんてしなくても、信じようとしてくれている二人が。
そんな友達を持った僕は、心底幸せだと思った。
「僕のわがまま、手伝ってもらっても良いかい?」
次いだ言葉で二人は僕の意図が分かったようで、正広はいつもの快活な笑みを浮かべて、春葉は涙を拭って笑って、僕の方を向いてくれた。
僕の劣等は、完全に無くなったわけではない。けれど、彼らが僕を受け入れて友達で居てくれる事で、僕は今日も僕で在れるような気がするのだった。
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