第20話 エンディング=ガール
20
夏休みは、最後の日を迎えた。その日ももう六時間弱しか残っていない。
綿雪さんの言う、世界崩壊の期限の日。
あの日以来僕は綿雪さんにも会っていない。部屋でダラダラしているだけだった。宿題にも、ほとんど手をつけてない。
ずっと虚無だった。誰にも会える気がしなかった。
正広と春葉には劣等と嫉妬しか感じられなくなってしまった。綿雪さんも傷つけてしまった。
いっそ、世界が滅んでしまえば良いと思っていた。そうすれば、良いも悪いも汚い僕自身も含めて、全部吹き飛ばしてしまえると思った。
だけど、きっと綿雪さんは今も世界の崩壊に抗おうとしているのだろう。
儀式、間に合ったんだろうか。
ふと頭の片隅に引っかかるものがあって、通学鞄の中身を物色し始めた。すると、それは簡単に見つかった。
交換日記用の水色のノート。八月三日の僕の分で止まったままだ。春葉と正広がキスをしていたのを見つけてしまったような日にも、律儀に日記だけは書いていた。
四月末から八月の頭まで、大よそ三ヶ月と少し。この日記があったおかげで、随分と綿雪さんとも仲良くなることが出来た。僕たちの全てが、ここに詰まっていると言っても良いだろう。
表紙をめくり、一ページ目から読み返し始める。
そこには僕と綿雪さんによって、今日までのあらゆる出来事が記録されている。
はずなのに。
四月二十三日、僕と綿雪さんが初めて話したという水曜日について、書かれているのを読んだ僕が感じた恐怖。
そんなことあったか?
そう思った自分に嫌なものを感じる。
実際にあったんだ。だって、綿雪さんは現にこの出来事を記録している。常々この日記における話の種にもなってきた。それは覚えている。なのに何故僕は出来事が思い出せない?
不意に自分がどう生きてきたのか分からなくなるような、歩みが曖昧になるような恐怖。
――綿雪さんって?
衝動は、その考えの直後に湧いた。
――謝らなきゃいけない。
交換日記を机の引き出しにしまってから、僕は自分の部屋を飛び出した。時計の針は六時二十分を示していた。部屋を飛び出して、騒音と共に階段を駆け下りる。
「朝日、うるさいわよ! ご飯ならもう五分くらいでできるから――ってどこに行くの!」
「ごめん母さん、ご飯はラップして置いといて!」
僕は紐が結ばれたままの運動靴を強引に履いて玄関から駆け出した。西の空はすっかり橙と青のグラデーションに染まっている。運動なんて全くしてなかったから、肺はすぐに悲鳴を上げ始める。息は吸ったそばから吐き出してしまう。口ばかりで息をするもんだから、口の中が乾いて、べとべとした泡になった唾液が気持ち悪かった。田舎の歩道を行き交う人々が、僕を見ては不思議そうな顔をする。僕は今、どんな顔をしているのだろうか。スピードを緩めては、息を大きく吸い込んでまた全力疾走。肺に悪そうなそんな走り方をひたすら繰り返した。死ぬんじゃないかと思った。
無我夢中で汗にまみれて走って、枕木中の校門前に着いた。先生がまだ全員帰っていないためか、校門はまだ開かれている。
僕は頭に血を上らせたまま、校舎内に向かってまた走り始めた。昇降口で靴を脱ぎ捨てて上履きを素早く履く。そしたら教室をひとつひとつ回る。教室は薄暗く、どこも空っぽだった。走り回っている最中に足がつりかけたけど、構わず走る。
綿雪さんが僕の頭から消えてしまっていることを認識して、そのことに酷く恐怖を感じた。
綿雪さんは僕にとって何なのか。もしも僕が綿雪さんとどんどん疎遠になっていったなら、その問いが明確にならないまま、僕は綿雪さんとの記憶を葬り去ってしまっていたのだろうか。
全ての教室を巡り終えた。けれど、彼女はどこにも居なかった。
駄目だ――そう思った瞬間、綿雪さんと過ごしてきた、もやのかかった記憶の中に、一つだけ残っていたものがあった。
僕と綿雪さんの繋がりが始まった、夜中の屋上。
体力は限界に近かった。喉がひゅうひゅうと音を立てて、そのまま着てきた部屋着は汗でずぶ濡れだった。それでも、止まるわけにはいかない。
屋上への階段を駆け上り、目の前にあった〔清掃中〕の看板を蹴り飛ばした。派手な音を立てて壁にぶつかった看板を無視して、錆び付いた重いドアを体重で押す。
軋みながら、その扉は開いた。
太陽はすっかり沈んで空は暗闇に包まれていて、街明かりがぼうっと照らす学校の屋上で、僕と綿雪さんは再会を果たした。
脳裏に浮かんだのは、ヒロインが屋上から飛び降りて死んでしまう【エンディング=ガール】のラストシーンだった。
欄干に寄りかかっている制服姿の綿雪さんは荒廃していた。
艶のあった綿雪さんの黒い長髪は、ばっさりと短く切られていた。そのショートヘアもボサボサで、しばらく手入れが怠られていたのが見るからに分かるほどだった。遠めに見ても頬は明らかにこけている。その姿は見るに耐えない。
そして何よりも、瞳が虚ろだった。
その虚ろな目が僕を捉えた。表情は変わらない。
僕が、ここまで追いやったんだ。
こみ上げる罪悪感が僕を満たしていく。血が逆流するかのような嫌な感覚。
傷つけたことを、気持ちを踏みにじったことを、僕は謝らなきゃいけない。
ドアノブを放されて、僕から解放された重いドアはひとりでに入り口を塞いだ。
鈍い金属のぶつかる音。僕は意を決して、一歩を踏み出す。
「……来ないでよっ!」
僕は目を見開いて動きを止めた。喋れないはずの綿雪さんが、はっきりと喋ったのだ。
意志のこもった綿雪さんの言葉が、僕を拒絶する。
「綿雪さん……」
「……どうして、今更来たの?」
「――謝りたいからだよ」
想いとは裏腹に、消え入りそうな僕の声。情けない僕はそれらを全部振り払いたくて、僕は重ねて無理矢理声を張り上げる。
「僕は君を傷つけた! 君の『ばいばい』って言葉が心残りだった! ずっと謝りたかった! だからここに来たんだよ!」
「今頃しゃしゃり出て勝手なこと言わないでよ! 朝日くんは私を否定したじゃん! 私の生きる意味を全部、全部否定したじゃん! ふざけるのも大概にして!」
おもいっきり叫んで、顔をグシャグシャに乱して、心をむき出しにして、彼女は泣く。
「……私さ、朝日君と居るとき、すごく楽しかったよ。この儀式の秘密を知られる、ずっと前から好きだったもん。一人で居るときにもいつも、朝日君のこと見てた。……だから、あの日から凄く仲良くなれて、私幸せだったよ」
綿雪さんの震え続ける言葉を聞いた。僕は何も言えなかった。
初めて告げられた想いに、胸が苦しくなる。ぎゅっと、息ができないほどに締めつけられる。思わず右手で自分の胸倉を押さえつける。治まりかけてた動悸が、再びやってくる。
「でも、教室で私を押し倒したときの朝日君は、私を見てなかった。私よりもずっと怯えてて、もっと苦しそうで、辛そうだった。その時私、思ったんだよ。『ああ、朝日くんはやっぱり幼なじみの春葉ちゃんのことが好きなんだ』、『私じゃダメなんだ』って。だから、私は早く居なくなりたかった。死んじゃいたかった。朝日くんの目に、入らないようになりたかった」
「そんな……」
僕の中に渦巻くもの。怒りか、焦りか、不安か、あるいはそういったもの全部かもしれない。
どうして、彼女を前にすると、こんなにも僕の感情は揺さぶられるのだろうか。
ここまでに溜まったものをぶちまけるように、僕は吠えた。
「そんなむちゃくちゃな道理が通るわけあるかよっ! 僕はそんなこと望んでないし願ってもない! ここで逃げたら、僕も君も、一生お互いに分かり合えないままじゃないか! そんなの絶対に嫌だ!」
「嫌も何も無いのっ!」
その後、彼女は小さな、儚く消えてしまいそうな声で。
「私が消えることが、最後の儀式だから」
そう僕に告げた。
「――え?」
鈍器でぶん殴られたかと思った。脳味噌が一旦空っぽになる。
何もない時間が、数秒過ぎた。
初めて綿雪さんから聞かされた儀式の代償。
少女の命。未来。
それらを生贄として、世界は救われる。
「この儀式を進めてきたのは私。だから、最後は私が消える必要がある。……どの道、ここでおしまい」
綿雪さんは突然、制服をお腹の部分からまくり上げる。晒された綿雪さんの腹部には、へその辺りを中心とした大きな魔法陣が描かれていた。
魔方陣が薄く赤く光を放っている。それらは真っ黒な夜と対比されて、とても鮮やかで。
「神様との契約は――これで終わるの」
綿雪さんは制服を元に戻した。
「……なんだよ、それ」
僕はまた、綿雪さんを泣かせたまま終わるのか。
もう、手が届かなくなってしまうのか。
所詮子供の駄々かもしれない。僕たちはまだ何の力も持っちゃいない。大人になっても子供みたいなもんだ。
でも。
「嫌だよ」
か細く、駄々をこねる。しかし現実を突きつけられた僕に、大声を出す気力は残っていない。
「――もう、終わりだから」
綿雪さんが欄干に手をかけて、乗り越えてその向こうへ行った。それを見た僕はすぐに走りだす。届きもしない手を伸ばす。もう一歩、綿雪さんが踏み出せば全てが終わる。
駄目だ。
終わっちゃ駄目だ。
生きてくれなきゃ、駄目なんだ。
喉が裂けるかと思うほど、強く叫ぶ。
「綿雪さんっ!」
彼女は体をこちらに向けて、笑って。
そのくせ目からは涙を流して。
「ばいばい」
綿雪さんは手を振った。
夕暮れの教室で見たタブレットの四文字と、その声が頭の中で一致する。
制服の下からでも分かるほど魔方陣が強く輝く。
ふらり、と綿雪さんが後ろにそのまま倒れこんで。
綿雪さんの姿が、屋上の向こうに落ちて消えた。
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