第21話 消えた思い出、埋まらない心
21
荒ぶる目覚ましの電源を叩きつけるようにオフにして、僕はベッドからだるい体を起こした。
「いっ……」
直後に激痛。原因不明の全身筋肉痛だった。
昨日、僕何かしたのか? 昨日の事を思い出そうとするけど、何も思い出せない。何か悪い夢を見ていたようで不快だった。着ているパジャマはぐっしょりと汗で濡れている。
とりあえず準備を手早く済ませて学校に向かおう。そう思って通学鞄を覗いてみると、夏休みの宿題が入っていて、ほとんど手付かずだった。途端に焦りととてつもない後悔が僕を襲う。毎年宿題は必ず終わらせていたはずなのに。僕は今年の夏休み中、一体何をしてたんだ?
そう思って夏休みを思い返そうとするけれど、思い出せない。八月の後半の方は春葉と正広のキスを見てしまって凹んでいたのは分かる。が、凹む前がほとんど思い出せない。
ぽっかりと、その部分だけに穴が空いてしまったかのような。
その虚無を感じると、なぜか肺がぎゅっと萎む。でも学校に行かないと。
「……なんだこれ」
机の上を見た時に、見覚えの無い水色のノートが置いてあった。夏休みの宿題用のノートかと一瞬思ったが、そもそもノートに布のカバーをかける趣味は僕には無い。他人のノートだろうか?
「後で考えよう」
ノートを引き出しにしまってから、僕は制服に着替え始めた。
自分のクラスに到着して、辺りを見渡す。クラスメイトは各々楽しそうに積もる話を繰り広げていく。その様子はいつも通りだ。
運動場側、外の景色がよく見える一番窓際の列。僕がその列の一番後ろなのに対して、前から三番目。なんとなく意識が向いたその席には誰もいない。欠席だろうか。
「三年三組席につけー。始業式前に出欠取るぞ」
教室に入ってきた先生の声を受けて、教室中の生徒が蜘蛛の子を散らすように動き出す。先生は全員が座ったのを見て出席をとっていく。
「次は――ん?」
先生が何かに気付いて、急に頭をポリポリと掻き出した。そこでクラスのお調子者が騒ぐ。
「先生、どうかしたんですかー?」
「いや、えっとだな――綿雪……って生徒はいるか?」
先生は僕の列の、前から三番目の席を指差す。そんな先生をクラスのお調子者が指差す。
「綿雪さんって誰っすか?」
「いや……多分うちのクラスの生徒なんだが……」
「そんな子、このクラスにいましたっけ?」
その言葉を受けて、クラスの視線が一斉に問題の席に向く。途端に教室がざわつき始める。「あの席って誰だったっけ……」「だから綿雪さんだろ。今日席空いてるのあそこだけだし」「でもお前綿雪さん知ってる?」「え、うちのクラスなんだろ? 俺知らねえけど」「私も知らなーい」「何それ気持ち悪……幻の四十番目の生徒ってこと?」「誰かのイタズラだって。名簿とかに仕込んだんだろ」「そう言えばウチ夏休みに変な二人組がずっと学校うろちょろしてたって噂聞いたよ」「それ誰情報だよ」「いや、知らねえけど……」
「静かにしろっ!」
先生の怒号が、一瞬で教室を黙らせる。そのまま数秒の沈黙。
「……とにかく、名簿はまたこっちで確認しておく。席はそのままにしておけ――じゃあ、始業式が始まるから、体育館に移動するぞ」
先生がまとめて次の指示を出したのを合図に、クラスメイトはまた喋りながら散り散りに動き出した。僕も体育館シューズを手に取った後、その席を眺めた。
一体誰の机なのだろう。
体育館に行くと、学年ごとにエリアを分けて、それぞれのクラスが出席番号順で並んでいた。
そしてその生徒の群れの中に、一際大きな正広の影があった。僕はそれを避ける。
痛む脚をふらふらと動かして、僕は三組の列の後ろの方に座った。
始業式は校長のつまらない話から始まる。多分朝の通勤時間で適当に話す内容を練って来たに違いない。聞いてるのもしんどいから、僕は前の人の後頭部をぼんやり眺めて過ごした。硬い木製の床にずっと押し付けたままのお尻が痛い。
気付けば夏休み中に部活で何かしらの結果を出した生徒の表彰も終わっていて、次は先生の諸注意だった。最初は生徒指導のヤスヒロ先生だった。どのみち聞く必要もない。
「さて、まずはこの間発覚した件なんですが……屋上に石灰とラインカーを持ち込み、落書きのようなことをした生徒がこの中にいるかもしれません。当然屋上は普段施錠されていますから、誰かが職員室に入って屋上の鍵を盗んだことになります。これは大変なことで、言ってしまえば犯罪ともとれる行為で――」
夏休みの宿題を出さなかったことで、各担当の先生からはこっぴどく怒られた。受験期にすることじゃないと声を荒げる先生も居れば、どうなっても知らないよと呆れかえる先生も居た。という訳で、始業式を終えて家に帰ってからは宿題地獄だった。確認できる限りだと、触れていないのは数学と国語の厚い夏休みドリル、英語の課題プリント十数枚だった。他のものに関しては完全に終わっていたのに、この三種類だけは手付かずだった。
手始めに数学のドリルをこなしていたら、作図問題が出てきた。
「コンパスどこにやったかな……」
独り言を呟いて引き出しを開くと、出てきたのは水色の布カバーで覆われたノートだった。
「あ、これ朝の」
僕が使ってる授業で使っているノートとは、メーカーも色も違う。やっぱり別の人の持ち物だろうかと思ったけど、表紙に名前は書かれていない。
僕は多少の興味に任せて表紙をめくった。すると、見覚えのある自分の字体と、どこか丸くて可愛らしい文字がひたすらに連なっている。それがひたすらに続いて、日付まで入っている。
「僕と……誰かの日記?」
でも僕が日記をつける人間じゃないのは十分に知っている。実際、提出させられる夏休みの絵日記も手を抜いたことしかない。
ぱらぱらと、流し読みをしながらページを進めていく。
「――え?」
日記を読み進めると、書かれていたのは綿雪さんという女の子の名前。朝にクラスで話題になった、誰も知らないクラスメイトだ。
僕はコンパスを取り出そうとしていたのも忘れて、ひたすらそのノートを読み返し続けた。
八月三日までの、僕の日記で交換日記は打ち止めになっていた。
書いたのは紛れもない、夏休みまでの僕だ。覚えは無い。相手も分からない。なのに、こんなにも胸が苦しくなるのは何故なのだろう。着ていたシャツの胸倉を自分で掴んでクシャクシャにした。息が止まってしまいそうな感覚が、辛くてたまらない。
ぽっかりと空いた心の穴に、何かが染みるような痛み。
「……綿雪さんは、どこにいるんだ?」
僕と交換日記をしていた綿雪さんという人がいて、それなのに何故か僕は――いや、皆が綿雪さんのことを忘れてしまっている。
存在そのものが、人々の間からふっつりと消えてしまっている。
夏休みの宿題が途端にどうでもよくなった。僕は探すことを決めた。
僕の心から、抜け落ちてしまったものを。
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