第19話 ばいばい
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その直後のことは、寝て翌日起きてからも鮮明に記憶に残っていた。というよりも、焼き付けられていた。一方で、家に帰ってきてからのことは何も覚えていない。多分泣いたりしてたんじゃないだろうか。
ねっとりと絡み合う二人を視界の端に捉えた僕。
二人とも情熱的なキスに夢中で、僕のことなんか気づきもしなかった。
僕はすぐさま身を翻し、来た道を戻っていく。別の道を通って帰らなきゃと直感で思った。
心臓が慌ただしい。呼吸も速まる。つられるように歩調も速まる。手足は疲れきってるけど気にしない。無理に笑おうとしてみると、表情筋が痙攣するのを感じた。
心がひとりでにもんどりうってずたずたに傷ついていく。
これが、本当の嫉妬だろうか。思ってたよりもずっと気持ち悪い感情だ。自分の中に留めておきたくない、誰も幸せになれない感情で、それでも抑えきれるものじゃない。胃が焼けるようで、むかむかする。
僕の知らない表情を二人はしていた。
なんだよ、見たことねーよ、そんなお前ら。
僕の速い歩み以上に、もの凄いスピードで回り回る景色。
心の中で黒い炎がぬらぬらと燃え上がる。暑いはずなのに全身に鳥肌が立つ。でも止まってしまうと気が狂ってしまいそうだから、ひたすらに歩き続ける。
大切に心の奥にしまっていた思い出が、二人のキスを見た途端ゴミクズのように思えてきた。
僕という人間は、ちっぽけでとても情けない。
見透かされてしまいそうな下心と、行き場のない嫉妬。
行いの全てが恥ずかしい。
頭の中身を全部ミキサーにぶち込んでどろどろにシェイクしてしまいたい。ああ、死にたい。
僕はただ――春葉の側にいたかっただけなのに。
朦朧とした意識のままで、夕方にやっと学校に行くことに意識が向いた。電話とか連絡ツールの類を何一つ持っていなかったから、しばらく手伝いを休みたいと直接伝えるしかなかった。
部活帰りと思しき生徒が二人、坂を下る僕の横を通り抜けていった。僕の顔を二人で見つめて、なにやらひそひそと喋っていた。イライラして僕は筋肉痛を無視して足の動きを速めた。
教室に着くなり、綿雪さんが作業を止めて僕のほうにやって来た。手荷物タブレットには『もしかして具合、悪かったの?』の文字。
普段どおりで何気ないはずの彼女の文字列は、むき出しの僕の心を逆撫でする。
「ごめんよ、ちょっと色々あって……しばらく儀式の手伝いを休ませて欲しい」
僕の言葉を聞いた綿雪さんの表情が、少し曇る。タブレットをせわしく叩いてから、綿雪さんは僕にその画面を見せる。
『出来るだけ、休まずに来れない? 儀式が間に合わなくなるかもしれない』
綿雪さんの無機質な言葉の、『儀式が』という部分だけが引っかかった。
ああ、この子もだ。僕のことなんて。
そんな考えに至った瞬間――自分の中で何かが弾け飛ぶ音がした。
鎖を引きちぎって暴れ出す僕のモンスター。脳が止まって、体は勝手に動いた。
気づけば僕は彼女を押し倒していた。彼女の華奢な体は簡単に床に倒れた。机が倒れて、彼女の準備していたの人型の白い札が舞い散って。
あの日と同じ夕暮れの教室。あの日と違うのは、彼女が僕に馬乗りになっているのではなく、僕が彼女に馬乗りになっているということ。
ここからどうするんだ僕? 服を剥ぐか? 唇を奪うか?
――そんなこと、望んじゃいない。
「あっ、……あ……う……」
言葉にならない、声だけを上げる綿雪さん。その声には確かな僕への恐怖が混じっていた。どこか心地良い気のする、彼女の僕への恐れ。反面、とても腹立たしい。
僕はさらに荒ぶった。確かな悪意を持って、彼女に話しかけた。
「――なあ、儀式って何なの? なんでこんなこと必死でやってんの?」
やめて、と。
ふるえるかのじょのくちが、ぱくぱくと。
ぼくもふるえる。やめなきゃ。
「こんな儀式うんざりなんだよ! 何この気色の悪い儀式? 滅ぶかもしれない世界? 止めることが使命? 知らねえよ、魔法少女の妄想なら一人でやってろ! そんなんだから僕もお前も友達が居ねえんだろうが! そんなんだから! 僕は! 春葉をっ!」
僕の潤んで霞む目は、彼女をまっすぐに見据えることができない。
激流のように血が巡るのがわかる。脳が血液中に麻薬を必死にばら撒いて、統制の利かない僕の心を体ごと麻痺させようとしている。彼女の肩を掴んだままの手が痺れ、痙攣する。
ぼろぼろと僕の目から涙が零れて、落ちた雫は彼女の制服を濡らしていった。
彼女の意志を確かに挫いてしまった――そう感じた。
ぽかんとしていた綿雪さんが、何かに耐えるように唇を噛んでからもがき始めた。
彼女は力の入らない僕の手を丁寧に人形の指を動かすように外し、僕の拘束からするりと抜け出すと、手速くさっきまで行っていた儀式の用意を鞄に片づけたと思われる音。彼女は何かを素早く書くと、僕の傍の床にそれを置いた。
空っぽになってへたり込み、俯いたままの僕の背後で、引き戸が乾いた音を立てて動く。
引き戸の閉じる音と共に、僕と彼女の間は完全に隔てられた。散らかった夕暮れの教室には、涙の跡と彼女の言葉だけが残された。
一人になった僕は、置き去りにされた一枚のメモに目線だけ向けて、彼女の言葉を確認する。
『ばいばい』
言葉が、僕の中で延々と反芻される。
四文字が残響だけになって、静かに僕の心を抉っていった。
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