第18話 忘れられるはずだった痛み

      18


 八月の上旬に差し掛かり、僕は綿雪さんとよく会うようになった。

 もちろん終業式の日も含めて、春葉や正広とはずっと顔を合わせていない。そのおかげか、あの日の劣等は少しずつ薄れてきていた。

 午後の強い日差しが今日も照り付けている。僕は制服を着て、リュックを背負って学校へ向かう準備をする。玄関を出ようとした僕に気付いた母さんが、台所から声をかけてくる。

「あら、今日も勉強に行くの」

「うん。まあ、そんな感じ」

 綿雪さんと儀式の準備をひたすらに進めるとはもちろん知らせない。多分、父さんと母さんには受験勉強に腰を据え出した息子程度に思っているのだろう。それに最近は、休憩中に勉強もちまちまこなすようになった。受験が近づいているのを僕も少しは感じるようになったのだ。

「じゃあちょっとおつかいを頼んで良い? 帰ってくるのは夕方でも構わないから」

「良いよ。何買えば良いの?」

「えっと……牛乳と食パンとそれから――結構多いわね。メモを渡しておくからそれ見ながら買ってきてちょうだい」

 喋りながらぱたぱたと駆けてきた母さんは、僕に千円札を二枚預ける。僕はそれを財布に収めて、財布をリュックに放り込んだ。

「じゃ、行ってきます」

「気をつけてね」

 家を出る前から汗ばんでいる僕の背中に、既にカッターシャツが貼り付きだしていた。


 綿雪さんはこんな日でも長袖の冬用制服を着ている。

「おはよう、綿雪さん」

『こんにちは』

 もうお昼は過ぎているということを、綿雪さんのタブレット端末は遠まわしに告げた。夏休みは、どうしても時間や曜日の感覚がおかしくなる。

 昇降口で上履きに履き替える。やはり外に比べると、屋内は多少涼しい。

「じゃあ、ちょっと待ってて。先生に届け出してくる」

『うん』

 僕はそう言って、一人で職員室に向かう。何をしているのかは隠すけど、一応先生に空き教室を使うという申し出だけはするようにしていた。

「失礼します」

 引き戸を静かにスライドさせて中に入ると、野球部の先生が一人だけデスクについて作業をしていた。気付いた先生が、僕を向いてニカリと笑う。

「ん――ああ、日浅くんじゃねえか。久しぶりだな」

「お久しぶりです」

「正広は元気してるか? アイツも勉強で忙しいのか、引退後めっきり会ってなくてなあ……」

「――ええ、元気だと思いますよ」

 僕もめっきり会ってないんですよ、とは言えなかった。

「先生方は他には誰もいらっしゃらないんですか?」

「今日は職員休暇だよ。俺はちょっと仕事を残しすぎちまったから残業してるんだがな」

「だ、大丈夫ですか?」

 働きすぎじゃ……と心配する僕を、先生は笑い飛ばす。

「まあ仕事して野球部の監督して家でカミさんと飯食えりゃ、俺の人生は充実してると言えるからいいのさ。――で、どうした。他の先生に用事があるなら、後日にしてもらわんといかんぞ」

「あ、いえ。空き教室を使わせてもらおうと……何時くらいまで学校に居ても大丈夫ですか?」

「なかなか熱心だな。大丈夫だぞ、俺も七時くらいまではここに居ると思う。三年三組の教室、エアコン入れといてやるよ」

「いや、そこまでしてくださらなくても……」

「生徒の勉強に役立つなら、税金なんざ幾らでも冷房代につぎ込んでやれば良いのさ」

 そう言って先生は職員室奥のエアコン操作パネルに向かう。

「すいません、ありがとうございます」

「おう、頑張ってな」

 若干の罪悪感を覚えながら、僕は職員室を後にした。


 テルテルボーズが効力を発揮しているせいなのかは分からないけど、夏休みが始まってからの十一日間、確かに作業中にこの教室を出入りする人間は僕と綿雪さん以外誰も居なかった。

 僕たちは世界の崩壊に立ち向かっているらしい。だけど、ルーズリーフを燃やすことやシチューを煮込んで捧げることが、世界の安寧に繋がるとはとてもじゃないが思えない。ただ、綿雪さんは儀式に対して全力だし、儀式が機能しているようであることは、先週のシチュー消失で薄々感じている。儀式は、あと四個。それを僕たちは八月三十一日までに終わらせなければならない。今が八月三日だから、一週間に一つ、儀式をこなしていく計算になる。

 鋏をじぐざぐと動かして真っ白な紙を人型に切り抜く。今回はこれが千体必要らしい。

 先生がクーラーをつけてくれたおかげで、僕たちの体は汗を垂らさずに作業を続けられている。むしろ教室に来るまでかいていた汗で、体が冷えて風邪を引きそうだった。

「綿雪さん、大丈夫? 寒くない?」

 こくりと頷く綿雪さんも、僕と同じ人型をひたすら切り抜き続けている。ところが、直後に彼女は少し身震いをした。綿雪さんは冬用制服を脱いでいて、下に着ていた長袖のカッターシャツは少し透けてしまっている。

「寒いし、少し外で休憩しようか」

 僕に寒さを察されてしまったことを恥ずかしく思ったのか、綿雪さんは口を結んで、少し俯き気味に頷いた。

 廊下に出ると、開いてた窓から入ってきた温い風が僕たちの体を撫でるように過ぎ去っていった。寒さはじきに和らいだ。僕たちは廊下の広いスペースにある木製のベンチに腰を下ろした。普段は雨の日に運動部がトレーニングをしたり、休み時間に男子がふざけ合っているこの空間も、生徒職員がほぼ全員夏休みのこの日は、僕たち以外に誰も居なかった。

 僕は手に持っていた水筒の蓋を開け、飲み口からちびりと冷たい麦茶を喉に流し込んだところで、隣に居る綿雪さんが手に何も持っていないことに気付いた。

「飲み物、持って来てないの?」

 こっちを向いた綿雪さんが、首を縦に振る。

「喉乾いてるなら僕の飲む?」

 一瞬ぎょっとした後、綿雪さんは俯いてしまう。僕の頭上に疑問符が浮かんで漂っている間に、綿雪さんはおずおずと両手を差し出してきた。僕は水筒を差し出し、綿雪さんが躊躇いながらそれを受け取った。

 目が泳ぎまくった後で水筒に口をつけた綿雪さん。僕が関節キスじゃんこれ、と気付いたときにはもう遅い。くびりと小さく喉を鳴らして麦茶を飲んで、綿雪さんは僕に水筒を返す。

 そして、ありがとう、と。口を動かして、声を出さずに僕にお礼を告げる綿雪さん。僕に目を合わせて言おうとしてくれてるけど、今もその目線は泳いでいる。僕も目を合わせられない。

「……ど、どういたしまして。熱中症とか、なったら危ないもんね」

 フォローにもなっていない下手な台詞をもごもごと呟いてから、綿雪さんが差し出す水筒を僕は気まずさいっぱいで受け取った。そのまま訪れる沈黙。お互いがお互いに恥ずかしがってるもんだから、何ともいえない空気に二人揃ってメンタルを疲れさせていく。教室で感じていた寒さを和らげていた暑さも、今は僕らにまとわりつくだけの不快な空気の塊だった。

 その気まずさから僕らはずっと黙ったままだったけど、先に僕が音を上げた。

「僕、先生に言ってエアコンの温度上げてもらってくるよ。テルテルボーズ、教室が認識されるように調整してもらってて良い?」

 綿雪さんが了承してくれるのを見て、僕はベンチから立ち上がった。

 が、直後に綿雪さんの左手が僕の右手を掴んだ。一瞬どきりとして全身に鳥肌が立った。

「ど、どうしたの綿雪さん?」

 さっきまでの空気の重みがなんだったかと言うくらいに、僕と綿雪さんは見つめあった。僕の場合は照れなんかよりも、綿雪さんが心配な気持ちの方が強かった。

 綿雪さんの目は少し濡れていて、あの日の涙を必死にこらえているような様子だった。

 何かに耐えかねて僕を掴んだかのような。でも、僕に察する能力なんて無い。

「……どうしたの?」

 でも、綿雪さんは結局何も言わないまま、首を横に振って握っていたその手を放した。放したというよりは、力が抜けてするりと手が滑り落ちた感じだった。

「――僕、行ってくるよ?」

 下を向いた綿雪さんは再度、僕の言葉を頷くことで了承する。

 今日はこの時以降、綿雪さんが辛そうな素振りをしていることは無くなった。時々休憩時間に話したり勉強したりして、その間の綿雪さんもいつも通りの様子だった。けれど、僕の右手にはずっと、綿雪さんの手のわずかな感触が残り続けていた。


 橙色の道を歩いて僕はおつかいから帰る。スーパーは学校への道中にあり、そこからの帰り道は下校の時と同じ坂道を上っていく必要があるのだが、これがまたなかなかハードだ。加えて玉ねぎ、ジャガイモ、にんじん等、明らかにカレーの材料だと思われる品々と、食パンなどの日常的に消耗する食べ物を一気に購入した。僕の腕力が単純に無いということもあるけど、トートバッグの持ち手の張りを見る限り、重さも相当あるようだった。そんな重さと坂道が、暑さと手をとって僕をいじめる。汗と疲労でくたくたべたべたになる僕。この暑さは、昼間に散々焼かれたコンクリートの坂道が熱を発しているのだろう。

 少しでも苦しさを紛らせるために、頭の中で別のことを考えようとする。

 やはり、最初に脳裏をよぎったのは綿雪さんのことだった。

 綿雪さんはいつも悲しそうだ。僕と綿雪さんの関係が出来たときから今まで、無表情のときも笑顔のときも、それは変わらない。その苦しさを取り除いてあげたい。そんな想いから、僕はずっと綿雪さんの傍にいる。

 ただ、僕は思うようになってしまった。実は綿雪さんを苦しめているのは僕ではないのかと。どうしてとか、どのようにしてとか、大した根拠は無い。ただ、綿雪さんはよく僕の前で泣く。涙の原因を取り除くも何も、僕がその原因そのものなのかもしれない。僕はよく女の子を泣かせる。春葉も綿雪さんも、僕が居ることで泣かせてしまっている。そんな節がある。

 ――じゃあ、そもそも僕が近づかなければ良い話じゃないのか?

 落ち着けよ。結局僕の思考は、こんな風なマイナスに向いてしまう。考えすぎれば考えすぎるほどに、沼にはまっていってしまうのだ。僕自身も、それは十分に理解している。

「暑い……」

 考えることすらも面倒になって来た。足を引きずるように歩いていると、坂の中腹にある公園が見えてきた。ここにも色々な思い出がある。小学校からずっと遊んでいた公園で、正広とも、春葉ともよくここで喋った。

 春葉を泣かせたのも、正広と決定的な溝が出来上がったのもこの公園だ。

 僕の小学校、中学校を合わせた九年間は、この公園と共にあると言っても良い。

 夕日に照らされて、眩く輝くその公園を僕は見つめた。そこに長く伸びる影が二つ。

 ベンチに座る正広と春葉がいて、二人はキスをしていた。


      *


八月三日(日)

 どうしてなんだろう。

 朝日

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